親鸞聖人の御命日と御臨終について

今回は、親鸞聖人の御命日と、御臨終のご様子について紹介いたします。

目次

親鸞聖人の御命日

親鸞聖人の御命日の記録は、本願寺所蔵『教行信証』の終わりにある識語では、切断されわからなくなっていますが、加賀弘願寺所蔵の『教行信証』や福井浄得寺所蔵の『教行信証』には記録されており、全文は次の通りです。

弘長二歲(壬戌)手度十一月廿八日未剋親鸞聖人御入滅也、御歳九十歳、同廿九日戌時東山御葬送 同卅日御舍利蔵

意訳:弘長2年(1262年)11月28日午後2時頃、親鸞聖人がご入滅されました。享年90歳でした。そして翌29日の午後6時頃に東山での葬送が行われ、30日に御遺骨(御舎利)が納められました。

また存覚上人袖日記に記されている安城御影(あんじょうごえい)の表書きには、次のようにあります。

弘長二歳十一月廿八日未時御入滅、御歳九十

意訳:弘長2年(1262年)11月28日の午後2時頃に入滅され、享年90歳でした。

「安城御影」は、以下の親鸞聖人の肖像画のことです。この肖像画は、弟子の専信が最初に伝持していたものと言われています。

浄土真宗では、親鸞聖人のお亡くなりになられた11月28日前後で、報恩講が勤められています。

報恩講は、浄土真宗の年中行事の中で最大のもので、多くの方が親鸞聖人の教えを聞きに集まります。

報恩講とはどんな行事なのか、詳しくは以下の記事を御覧ください。

晩年の親鸞聖人

親鸞聖人の晩年、60年にわたる熾烈な布教のお疲れは、私たちの想像を超えるものであったに違いありません。

不断の文書伝道は、親鸞聖人の目を傷めずにはおれませんでした。85歳のお手紙には、「目もみえず候」とあります。

よくしれらんひとに尋ねまうしたまふべし。またくはしくはこの文にて申すべくも候はず。目もみえず候ふ。なにごともみなわすれて候ふうへに、ひとにあきらかに申すべき身にもあらず候ふ。よくよく浄土の学生にとひまうしたまふべし

引用:『末灯鈔』

意訳:(「三宝」の意味など詳しくお書きくだされた後に)よく知っている方々にお尋ねになるべきです。また、この手紙で詳しくご説明することもできません。私は目も見えなくなり、何事もすべて忘れてしまう状態である上に、人に明確に物事を説明できる立場でもありません。どうか浄土の学生に、よくよくお尋ねになってください。

お体は確実に衰えられていましたが、執筆の勢いは全く変わらず、最後の著作は88歳のときに『弥陀如来名号徳』を制作されています。

さらに親鸞聖人は、曇鸞大師の『浄土論註』や、法友の隆寛や聖覚法印の著書を書写してはお弟子に与え、最後まで教化に力を尽くされ、90歳でご生涯を閉じられました。

親鸞聖人の御臨終の立会

一切の妥協を排し、孤独な道を突き進まれた親鸞聖人の御臨終に立ち会ったのは、御子息の末娘覚信尼、第5子の益方(法名道性)、弟子の顕智、専信の4人だったといいます。

恵信尼の書状に次のようにあります。

ますかたも御りんずにあいまいらせて候ける、おやこのちぎりと申ながら、ふかくこそおぼえ候へばれしく候

引用:『恵信尼文書』

意訳:益方もご臨終に立ち会わせていただきました。親子の縁を深く感じられて、うれしく存じます。

また高田本「教行信証」の奥書に、下野高田(現栃木県真岡市付近)の顕智と遠江池田(現静岡県磐田市付近)の専信が立ち会ったと記されています。

顕智も専信も関東から何度も京都の親鸞聖人のもとを訪れ、直接教えを受けていた聖人昵懇のお弟子です。

聖人、御臨終の時の様子が、次のように記されています。

終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、をのをの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまをかなしみて、恋慕涕泣せずといふことなし

引用:『親鸞聖人伝絵

意訳:親鸞聖人の最期に立ち会った弟子たちや、生前に教えを受けた老若男女、みなそれぞれが聖人の生前のことを思い出し、亡くなられた今を深く悲しみ、恋い慕い、誰一人として涙を流さない者はいませんでした。

親鸞聖人は、29日の午後8時に葬送され、翌30日には遺骨が納められました。

荼毘に付された地

親鸞、閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし

引用:改邪鈔

意訳:私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ

このお言葉は、親鸞聖人が常に仰っていたお言葉として、改邪鈔に書き記されています。

驚くべきお言葉ですが、親鸞聖人が墓や葬式などは全く問題にされず、焼けば灰になる肉体の後始末より、魂の解決(信心獲得)を急がねばならないと教誨されています。

このお言葉の真意について、詳しくは以下の記事をお読みください。

1から分かる親鸞聖人と浄土真宗 -...
親鸞聖人「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」の真意 - 1から分かる親鸞聖人と浄土真宗 「私が死んだら、賀茂川へ捨てて魚に与えよ」と聞いたら、驚く人が多いのではないでしょうか。実は、親鸞聖人は、常に

実際には、親鸞聖人のご遺体を粗末に扱うはずはなく、聖人も荼毘に付されています。

その時の状況について、『親鸞聖人伝絵』には、次のように書かれています。

禅坊は長安馮翊の辺(押小路南、萬里小路東)なれば、はるかに河東の路を歴て洛陽東山の西麓、鳥辺野の南の辺、延仁寺に葬したてまつる、遺骨を拾て、同山麓、鳥辺野の北、大谷にこれをおさめたてまつりをはりぬ

引用:『親鸞聖人伝絵』

意訳:お住まいは長安馮翊(現在の京都市中京区押小路通万里小路東入ル付近)であったため、はるかに河東(東山)の道を通って、東山の西のふもと、鳥辺野の南にある延仁寺にて葬儀を執り行いました。その後、遺骨を収めて、同じ東山のふもとの、鳥辺野の北にある大谷に納めて葬送の儀式を終えました。

「押小路南萬里小路東」は、三条富小路善法坊と考えられ、京都会館から歩いて20分くらいのところに「見真大師遷化旧跡」として残っています。

また「鳥辺野の南の辺、延仁寺」は大谷本廟の東北あたりと論証されており、京都会館からこちら歩いて30分ほどのところにあります。

編集後記

親鸞聖人のご遺言は、「御臨末の御書」として、今日に伝えられています。

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せか

け寄せかけ帰らんに同じ。一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と

思うべし、その一人は親鸞なり

『御臨末の書』

意訳:一度は弥陀の浄土へ還るけれども、寄せては返す波のように、すぐに戻ってくるからな。
一人いる時は二人、二人の時は三人と思ってくだされ。うれしい時も悲しい時も、決してあなたは、一人ではないのだよ。いつもそばに親鸞がいるからね。

親鸞聖人は、後世の私たち親鸞学徒の聞法を、今も励ましてくださっています。

御臨末の書についてはこちらの記事もお読みください。

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晩年まで身を粉にして阿弥陀仏の本願を伝えてくだされた親鸞聖人のご恩を偲びながら、これからも浄土真宗親鸞会京都会館で、親鸞聖人の教えを聞かせていただきましょう。

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