親鸞聖人は幼い頃に両親を亡くし、無常に驚かれ、わずか9歳で天台宗に出家されました。
その後、親鸞聖人は比叡山で誰よりも真剣に修行に打ち込まれますが、29歳のとき、20年にも及ぶ比叡山での厳しい修行生活に、終止符を打たれます。
今回は親鸞聖人が比叡山を下りられた理由について解説します。
20年間の修行を捨てるということ
親鸞聖人は、9歳で出家してから29歳までの20年間、比叡山で仏道修行に励みました。
しかし親鸞聖人は、比叡山での修行を辞めるという決断をされました。
今日で言うなら、例えば、プロ野球選手を目指して、小学生の頃から毎日毎日、血のにじむような練習を続けたとします。高校では甲子園を目指して、野球に命を捧げてきました。でも、29歳になった時、突然「やっぱりプロは諦める」と決断する。
または、医者になる夢を追いかけて、猛勉強の末に難関大学の医学部に合格。そこからさらに何年も、膨大な知識と技術を身につけるために寝る間も惜しんで勉強してきた。それなのに、29歳になって「医者にはならない」と決める。
これらの決断も大変だと思います。
20年という年月だけなら同じように思いますが、親鸞聖人の場合は、比叡山にこもり、世間と断絶して「頭の毛に火がついた人が、必死にそれを振り払うように」まさに全身全霊をかけて、後生の一大事の解決を求めて修行に打ち込まれました。
親鸞聖人が決断された理由
なかには
「修行が辛くて逃げ出されたんじゃないの?」
と思う人もいるかもしれません。
確かに、当時の比叡山の修行は、想像を絶するほど過酷でした。
寝る間もなく、粗末な食事、女性のいない環境、そして極寒の山中生活…。挫折する人がいても不思議ではありません。
しかし、聖人は「叡山の麒麟児」とまで呼ばれるほど、学問においても修行においても、比叡山で彼の右に出る者はいないと言われるほどだったのです。
さらに、親鸞聖人は、比叡山で最も過酷とされる「大曼の行」という難行さえも成し遂げています。
親鸞聖人の比叡山での修行についてはこちらをお読みください。

周りからも認められ、自分自身も難行を幾度も乗り越えられた親鸞聖人が、修行の厳しさに負けて、自信をなくして山を下りたとは、考えられないことです。
ではなぜ山を下りられたのでしょうか。
比叡山の修行への絶望
存覚上人が書かれた『歎徳文』に、親鸞聖人の修行時の苦悩が生々しく記されています。
静かな夜、修行に励まれる親鸞聖人は、比叡の山上から、鏡のような琵琶湖を見下ろし、次のような思いをいだかれます。
定水を凝らすといえども識浪しきりに動き、心月を観ずといえども妄雲なお覆う。しかるに一息追がざれば千載に長く往く。なんぞ、浮生の交衆をむさぼって、いたずらに仮名の修学に疲れん。すべからく勢利を抛って、直に出離をねがうべし
引用:『歎徳文』
意訳:あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。思ってはならぬことが思えてくる。考えてはならぬことが浮かんでくる。恐ろしい心が噴き上がる。どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか。あの月を見るように、なぜさとりの月が見られぬのか。みだらな雲がわき上がり、心の天をおおい隠す。こんな暗い心のままで、死んでいかねばならぬのか。かかる一大事を持ちながら、どうして無駄な時を流せよう。はやく俗念を投げ捨てて、この大事を解決せねば。
磯長の夢告において親鸞聖人は「汝が命根は応に十余歳なるべし」と告げられ、29歳の年は夢告からちょうど十年目のことでした。
修行に精も根も尽き果てられた親鸞聖人は、「天台宗・法華経の教えでは救われない」と絶望され、ついに、下山を決意されました。
磯長の夢告についてはこちらの記事を御覧ください。
激しい無常と罪悪に責め立てられた親鸞聖人にはもう一刻の猶予もありません。
そして京都の六角堂に向かわれました。
六角堂への参詣
恵信尼文書には、次のように記されています。
殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日篭らせたまひで後世を祈らせたまいけるに
引用:『恵信尼文書』
意訳:親鸞聖人は比叡山で堂僧として務められましたが、比叡山を降りて、京都の六角堂に百日間こもられ、後生の一大事の解決を尋ねられました。
親鸞聖人は、なぜ六角堂に向かわれたのでしょうか。
六角堂の由来
六角堂は、天台宗系の単立寺院であり、 正式名称は「紫雲山 頂法寺」です。
本堂が六角形を成していることから「六角堂」の名で呼ばれるようになりました。
浄土真宗親鸞会京都会館から、北へ向かって歩いて17分程のところにあります。
587年(用明天皇2年)、聖徳太子がこの地を訪れ、池で身を清められました。これがきっかけで六角堂が建てられたのです。
聖徳太子に仕えた小野妹子は、遣隋使として中国へ渡り、仏教を広めるために活躍しました。
その後、六角堂の住職となり、中国でお仏花の素晴らしさに感動し、自ら花をいけ、御本尊へ供えるようになりました。これが、日本の「生け花」の始まりと言われています。
小野妹子は、聖徳太子が身を清めた池のそばに住居を構えたことから、「池のそばの坊」という意味で「池坊」と呼ばれ、以来、六角堂の住職は代々華道家元の「池坊」が務め、境内に池坊会館が建っています。
親鸞聖人の六角堂への思い
親鸞聖人は深く聖徳太子を尊敬されていたことから、晩年には多くの和讃で、聖徳太子が建てられた六角堂を讃えられています。
たとえば次のような和讃があります。
太子の勅命帰敬して
六角の御てらを信受す
皇宮の有情もろともに
恭敬尊重せしむべ
引用:『皇太子聖徳奉讃』
和讃は晩年に作られたものですが、聖人は比叡山を下りて六角堂をおとずれた当時から大事な場所として礼賛していたと考えられています。
親鸞聖人と聖徳太子との関係については、以下を御覧ください。

親鸞聖人は、六角堂に参拝された際に、ご安置されていた救世観音に、我が身の救われる道があるかと、必死に尋ねられました。
『歎徳文』にはこのようにあります。
迺近対根本中堂之尊、遠詣枝末諸方之霊窟、祈解脱之径路、求真実之知識、特運歩於六角之精含、底百日之懇念之処
引用:『歎徳文』
意訳:それから、近くは比叡山の根本中堂の御本尊にお参りし、遠くは各地の霊験あらたかな聖地へ赴き、後生の一大事の解決の道を祈り、真実の教えを説く善知識を求め、特に歩みを六角堂に運び、百日間の参籠をいたしました
親鸞聖人は、真の知識を求め、六角堂に参拝されました。
六角堂の本尊の救世観音に、我が身の救われる道があるかと、必死に尋ねられた時のことです。
親鸞聖人は「救世観音の夢告」を受けられました。
救世観音の夢告
『夢告』の内容は次のとおりです。
『恵信尼文書』や、『御伝鈔第三段』には次のようにあります。
やまをいてゝ、六かくたうに百日こもらせ給て、こせをいのらせ給けるに、 九十五日のあか月、しやうとくたいしのもんをむすひてしけんにあつからせ給て候けれは、
引用:『恵信尼文書』
意訳:比叡の山をいでて、六角堂に百日お籠りになられて、後生の一大事の解決を祈られると、95日の暁に、聖徳太子が偈文を口誦すると、観音菩薩が聖徳太子の姿となって示現せられました。
六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の黑装を著服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまはく、「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽」といへり。「善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむへし」と云々。
引用:『御伝鈔』
爾時善信、夢中にありなから、御堂の正面にして、東方をみれは峨々たる岳山あり、その高山に、數千万億の有情群集せりとみゆ、其時告命のことく、此文のこころをかの山にあつまれる有情に對して說きかしめ畢とおばえてゆめさめ畢云々
意訳:(95日目の夜明けに)救世観音が顔かたちをととのえ立派な僧の姿をして、まっ白な袈裟を身に着け大白蓮華の台に座って、善信(親鸞聖人)にこう告げられました。
「行者が、これまでの因縁によって、たとい女犯があっても、私(観音)が玉女の身となって肉体の交わりを受けよう。一生の間、能く荘厳して、その死に際しては導いて極楽に生ぜさせよう。」
救世菩薩は、この文を唱えて言うには、
「この文は、私の誓願である。一切の人々に説き聞かせなさい」と告げられた。
その時私は、夢の中で、お堂の正面、東の方を見ると、高くそびえる山があり、その山に数えきれないほどの人々が集まっているのが見えました。
仰せに従って、その数千万の人々に、これを聞かせたと思われたところで夢がさめ終わった。
上記の偈文は、親鸞聖人より5年も早く亡くなった、高弟の真仏が書写した『六角堂夢想偈文(断簡)』にもありますから、聖人の真作として今日疑う人はありません。
「行者」とは、真実の救いを求め仏道修行していられた聖人のことです。
仏教ではそれまで、僧侶は一切女性に近づいてはならないという、厳しい戒律がありました。
しかし、色と欲から生まれた人間が、色と欲から離れ切れない矛盾に突き当たって、悶え苦しんでいられた親鸞聖人に対して、
「もしあなたが、女性と交わりを結ぶ時は、私(観音)が玉女という女になってあげましょう」と告げられたのは、ありのままの人間として、男女が結婚して人生を荘厳できる、阿弥陀如来の絶対の救済のあることを、救世観音が夢で教導なされたものでしょう。
しかも、「この文は、私の誓願である」と断言しているのは、この弥陀の絶対の救済を教えることこそが、諸仏・菩薩の出世の本懐であることを表白せられたものです。
「一切の人々に説き聞かせなさい」と言ったのは、「この阿弥陀如来の救いを、一切の人々に説き聞かせることこそが、あなたの唯一無二の使命である」と、救世観音が聖人にさとされたものでしょう。
「この救世観音の教えに従って、数千万の人々に、これを聞かせた」とあるのは、聖人の開顕なされた阿弥陀仏の本願によって、どれだけの大衆が人間あるがままの姿で、絶対の救いに値うことができたであろうと思えば、深くうなずかずにはおれません。
これを「女犯の夢告」とか、「救世観音の夢告」といわれています。
親鸞聖人は、比叡山を下り、六角堂で百日の祈願をされましたが、このときはまだ魂の解決はできず、なおも一大事の後生に苦しまれることになります。
そして京の町へと出ていかれ、転機が訪れます。
編集後記
20年間、親鸞聖人は比叡山で血を吐く難行苦行に励まれましたが、心に灯りはともらず、泣く泣く下山を決意されました。
親鸞聖人でさえ、善知識とお遇いすることは大変なことだったのです。
親鸞聖人は
真の知識にあうことは かたきが中になおかたし
引用:『高僧和讃』
と教えられています。
「正しい仏教を教える師とめぐりあうのは、難しい中になお難しい」と教えられています。
親鸞聖人のご一生を知れば、求めても求めてもめぐりあえない、どれだけ難しいことなのか、知らされます。
そんな中、私たち親鸞学徒は、真実の仏法とめぐりあうことができました。
今の仏縁に感謝し、これからも浄土真宗親鸞会京都会館で阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。