親鸞聖人比叡山延暦寺でのご修行のこと

比叡山延暦寺

親鸞聖人は9歳で出家した後、比叡山天台宗総本山延暦寺で20年間、後生の一大事の解決一つを求め、ご修行なされました。

今回は、天台宗とはどのようなところか、親鸞聖人がどのようなご修行をされていたのかについて紹介します。

親鸞聖人の比叡山時代のお名前は「範宴」ですが、わかりやすいよう記事では「親鸞聖人」で表記を統一しています。

出家の動機については下記をお読みください。

目次

『御伝鈔』による伝承

覚如上人が書かれた御伝鈔には、次のように記されています。

それよりこのかた、しばしば南岳天台の玄風をとぶらひて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流をたたへて、 ふかく、四教円融の義に、あきらかなり。

引用:『御伝鈔』

意訳:出家されてからは、比叡山にて、南岳慧思や智顗が開いた天台宗の奥義を極め、つねに横川の天台教学を深く研讃せられました。

少し知識が必要なので、上記の言葉の意味をそれぞれ説明しながら、天台宗とはどのような宗派なのかも知っていただきたいと思います。

南岳天台の玄風をとぶらいて

「南岳」は中国湖南省に位置し、天台宗二祖に位置づけられている「慧思」が居住していた山です。

そのため慧思は、南岳慧思とも言われます。

天台宗は南岳慧思の弟子である智顗が、中国浙江省の天台山で開いた宗派となります。

中国天台宗は智顗が開きましたが、開祖慧文、第二祖を慧思、第三祖を智顗としています。

その中国天台宗の教えを日本に伝えたのが、最澄でした。

「南岳天台の玄風をとぶらいて」とは、天台宗の深遠な教えを学び求めて、という意味です。

三観仏乗の理を達し

『三観』とは、天台宗の中心的な教えで、「一心三観」という観法のこと。天台宗ではこの教えを、法華経の核心だと考えています。

つまり「三観仏乗の理を達し」は、天台宗の一心三観によって悟りを開くという教えを深く理解し、

という意味です。

とこしなへに楞厳横川の余流をたたへて

「楞厳横川」は、浄土教と関係が深く、源信僧都も住持されていた横川の首楞厳院のことです。

延暦寺は、比叡山の山内にある境内地に点在する約100ほどの御堂の総称です。延暦寺という一棟の建物があるわけではありません。

山内を地域別に、東を「東塔」、西を「西塔」、北を「横川」の3つに区分しています。これを三塔と言い、それぞれに本堂があります。

親鸞聖人は横川にある首楞厳院を中心に、学ばれていたということです。

つまり「とこしなへに楞厳横川の余流をたたへて」は、常に横川の首楞厳院の天台教学を学び、ということです。

ふかく四教円融の義にあきらかなり

各宗派には、一切経をどのように分類したのかという体系があり、これを教相判釈(教判)といいます。

天台宗の教相判釈は「五時八教」であり、「五時」とはお釈迦様が説いた教えを、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華時の5つの時期に分けたものです。

「八教」とは化儀の四教と化法の四教のことで、四教円融の「四教」とは八教のことを指します。覚如上人が八教ではなくあえて「四教」と書かれているのは、上の「三観」を受けられているからです。

「円融」とは天台宗の三諦円融という根本的な教義のことなので、「ふかく四教円融の義にあきらかなり」とは、天台宗の教相判釈など根本的な教えに深く精通されていた、という意味です。

親鸞聖人が天台宗の教えを大変深く学ばれていたことを覚如上人が伝えられています。

また覚如上人は次のようにも伝えておられます。

『報恩講式』による伝承

『報恩講式』は、1294年に親鸞聖人の33回忌の時に覚如上人が著されたもので、内容は仏、菩薩、高僧の功徳を讃えたものです。

覚如上人は次のように親鸞聖人の比叡山時代について書かれています。

台嶺の窓に入りたまひしよりこのかた、慈鎮和尚をもって師範となし、顕密両宗の教法を習学す。 蘿洞の霞のうちに、三諦一諦の妙理をうかがひ、草庵の月のまへに、瑜伽瑜祇の観念をこらす。鎮なえに明師に逢うて大小の奥蔵を伝え、広く諸宗を試みて甚深の義理を究む 

引用:『報恩講式』

意訳:比叡山に入られて以来、慈鎮和尚を師として仰ぎ、顕教と密教の両方の教えを学びました。山寺の霞の中で、三諦一諦という天台宗で教える深い教義を学び、草庵で月を眺めながら、瑜伽瑜祇という密教の観法を実践しました。着実に優れた師に出会って、大乗仏教と小乗仏教の深い教えを伝授され、さらに広く様々な宗派の教えを学んで、その深遠な真理を究めました。

親鸞聖人が、顕教と密教のどちらも深く学び、実践されていたことが記されています。

さらに覚如上人の長子である存覚上人は、『歎徳文』に格調高く次のように書かれています。

それ親鸞聖人は浄教西方の先達、真宗末代の明師なり。博覧内外に渉り、修練顕密を兼ぬ。初めには俗典を習ひて切瑳す。これはこれ、伯父業吏部の学窓にありて、聚蛍映雪の苦節を抽んづるところなり。後には円宗に携りて研精す。此は是、貫首鎮和尚の禅房に陪りて、大才諸徳の講敷を聞く所なり。之によりて、十乗三諦の月、観念の秋を送り、百界千如の花、薫修歳を累ぬ。

引用:『歎徳文』

意訳:親鸞聖人は、親鸞聖人は浄教西方の先達、真宗末代の明師である。その学識は実に広範で、仏教に限らず、世俗の学問にも精通されていました。さらに顕教と密教の両方の修行も極められたのです。

若き日の親鸞聖人は、出家前から非凡な向学心を持っておられ、伯父である藤原宗業(むねのり)の書斎に身を置き、夜は蛍の光や雪の明かりを頼りに、苦労して学問に打ち込まれました。

出家後は、天台宗で研鑽し、そこで慈鎮和尚を師匠とし、その下で多くの学識豊かな僧侶たちの教えを受けることとなりました。親鸞聖人は天台の深遠な教えである「十乗三諦」という真理の月を観想し、「観念」の深い秋に心を澄まし、「百界千如」という悟りの花を愛でるなど、修行と研鑽の日々を重ねられていたのです。

親鸞聖人が出家前から、藤原範綱の弟であり文学博士の藤原宗業のもとで大変な苦学をされていたことが書かれています。

そして天台宗で出家した後も、多くのすぐれた学僧から教えを学ばれ、修行に打ち込まれていました。

親鸞聖人は比叡山ではどのような僧侶だったのかについて、具体的なところは、恵信尼文書に書かれています。

『恵信尼文書』の記載

恵信尼は、次のように記しています。

殿の比叡の山に堂僧つとめておわしましける

引用:「恵信尼文書』

殿は、親鸞聖人のことなので、親鸞聖人が比叡山において「堂僧」であったと書かれています。

堂僧について諸説ありますが、比叡山の常行三昧堂に奉仕し、不断念仏をつとめる堂僧のことだと考えられています。

さらに親鸞聖人が、比叡山で「大曼の難行」という過酷な修行に打ち込まれたことが伝えられています。

大曼の難行

親鸞聖人が達成したとされる大曼の難行は、大満の修行ともいわれる大変過酷な修行でした。

大曼の難行は、今日の千日回峰行よりも大変な修行だった言われていますので、参考として千日回峰行について説明します。

「千日回峰行」とは

千日回峰行とは、まず12年間は、結界の中で修行し、山から下りない厳しい不文律があります。

真夜中の零時前に起床して、山上山下の行者道を30キロ(七里半)歩きます。

この間、堂塔伽藍や山王七社、霊石、霊水など約三百カ所で所定の修行をしますが、雨風雪、病気になってもやめることはできません。

もし途中で挫折した時は、持参の短刀で自害するのが山の掟になっています。

初めの3年間は毎年100日、次の2年間は毎年200日、その翌年は100日、最後は200日間、休まず修行しなければならず、とりわけ大変なのが、最後の年に100日続ける「大回り」です。

山を下りて京都の修学院から一乗寺、平安神宮、祇園と1日84キロ(21里)を17、8時間で回る生死関頭の苦行です。

幕末から今日までやり遂げた者は十数人という、文字どおり命懸けの修行です。

修行を始めて5年目には、9日間、堂の中に立て籠もって、食と水を断ち、眠るはおろか、横にもなってもいけない決死の修行があります。命を落としてもおかしくない荒行です。

親鸞聖人は、9歳から29歳まで20年間、その千日回峰行よりも厳しい「大曼の難行」に、全身全霊打ち込まれましたが、魂の解決は、なりませんでした。

そして比叡山の山を下りられる事になったのです。

編集後記

親鸞聖人は比叡山に出家される前の幼いときから、大変勉学に打ち込まれ、出家後にも天台宗の難解な教えと厳しい修行に真摯に向き合われていたことがわかります。

また法然上人も過去を述懐し次のように言われ、日々研鑽されています。

われ、聖教を見ざる日なし、木曽の冠者(かじゃ)花洛(からく)に乱入のとき、たゞ一日、聖教を見ざりき。

引用:『法然上人勅修御伝』

意訳:私はお聖教を見ない日はない。木曽義仲が京都に乱入した時、ただ一日、お聖教を読まなかっただけだ。

親鸞聖人も法然上人も、後生の一大事の解決を求め聞法・教学・行学を徹底して行っておられます。

私たちも浄土真宗親鸞会京都会館で、親鸞聖人の教えに常に親しみ、阿弥陀仏の本願について聞かせていただきましょう。

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