今回は、法然門下時代の親鸞聖人とお屋敷のあった場所とされる岡崎別院について紹介します。
親鸞聖人の京都のお住い
親鸞聖人は、法然門下時代と、60歳を過ぎ、関東布教から京都に帰られた時も、最初に岡崎の草庵に住んだと言われています。
その時に住んでおられた場所が、今の岡崎別院のあるところと言われており、今日でも親鸞聖人ゆかりの地となっています。
岡崎別院について
『親鸞聖人正明伝』によれば、親鸞聖人が法然上人のお弟子となられてから、31歳の時に藤原兼実公の娘である玉日姫とご結婚されました。
その後、岡崎にて草庵を結ばれ、今の岡崎別院の場所にあったといわれています。
ここから法然上人のおられる吉水の草庵に通い、阿弥陀仏の本願について聞かれていました。
後世になって、東本願寺の達如が1801年(享和元年)にこの地に建物を建てられ、「岡崎御坊」と呼ばれるようになり、そして、1876年(明治9年)に「岡崎別院」と改称されました。
親鸞聖人は法然門下時代どのような方だったのでしょうか。
親鸞聖人の法然門下時代
親鸞聖人は29歳のとき、この吉水の草庵で法然上人から阿弥陀仏の本願を聞かせていただき、絶対の幸福に救い摂られました。
そして「たとえ法然上人にだまされて念仏して地獄に堕ちても後悔しない」という他力信心となった親鸞聖人は、法然上人のもとで教えを研鑽されていきました。
親鸞聖人は吉水の草庵の中で、現在の安養寺あたりの東の新房で学ばれていたといいます。
吉崎の草庵についてはこちらをお読みください。

31歳 肉食妻帯
親鸞聖人は31歳で結婚(妻帯)なされました。
今日なら「おめでたいことだ」で終わるでしょうが、そうはいきませんでした。
なぜなら当時、僧侶の結婚(妻帯)は固く禁じられていたからです。
そんな中、僧侶の身で公然と結婚された親鸞聖人。実はこれが世界初であり、大事件だったのです。
また親鸞聖人は、「肉食(にくじき)」といい、一般庶民と同じく魚などの肉も食べられました。
肉食は、生き物を殺す罪として僧侶の厳禁事項でした。
中国や韓国、東南アジアの仏教国では、今でも僧侶の肉食妻帯は禁止されています。
そんな中、親鸞聖人は公然と肉食妻帯を断行されました。
世は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなり、親鸞聖人は「色坊主」「堕落坊主」と罵倒され、破戒僧として石を投げられ槍まで突き付けられたのです。
ですから肉食妻帯は、命がけの断行でした。
これは大変なことであり、文豪、夏目漱石は「大改革」と表現し、次のように語っています。
「その時分に、(略)思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行してご覧なさい。どの位迫害を受けるか分からない」
「親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」
出典:夏目漱石「模倣と独立」
夏目漱石は、親鸞聖人の肉食妻帯の決行を「非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想」と、「非常」という言葉を三回も重ねて驚愕しています。ここからも、どれほどの大改革であったかをうかがい知ることができます。
ではなぜ親鸞聖人は、これほどまでの非難を覚悟の上で肉食妻帯なされたのでしょうか。
肉食妻帯の理由と、私たちとの深い関係
なぜ肉食妻帯を決行されたのか。
それは、すべての人がありのままの姿で平等に救われるのが本当の仏教であることを身をもって明らかにされるためでした。
今日でも仏教の名のもとに、肉食も妻帯もせず、髪をそって修行に励む生き方が仏道と信じ、他人にも勧めている人があります。
欲もおこさず、微塵の罪もつくらず、厳しい戒律を守ったものだけが救われると思っているのです。
しかし、もしそれが本当の仏教なら、家庭を持ち、肉を食べながら生きている私たちには、縁のない教えになってしまいます。
私たち人間は、欲も起こすし、腹も立つ。恨んだり愚痴ったり、勝るをねたみ、我が身かわいさにウソをついたり、ごまかしたり。たわいもないことで喧嘩をしては口や体で人を傷つける。色欲の情もおきるし、うまいうまいと肉を食べて生きてきた。それが人間。これからもそうでしょう。
もちろん、開き直ってやりたいようにやれといわれているわけではありません。
悲しい人間の限界をよくよく知られた上で、そういう者をこそ見捨てずに救うのが、まことの仏の心なのだということを明らかにされたのです。
親鸞聖人は、私たちのこのような心や日常の実態を全て理解され、そんなあなたこそが、本当の幸せになれるのだと手を差し伸べてくだされたのでした。
欲もあり、怒りも起こす人間が、ありのままの姿で救われる。それが、本当の仏教だと示されたのが肉食妻帯を断行された親鸞聖人の心だったのです。
肉食妻帯については、以下の記事もお読みください。
33歳 選択本願念仏集の書写
法然上人は、親鸞聖人の才能と熱意を高く評価されていました。
元久二年(1205年)、聖人33歳のとき、法然上人は自らの著書『選択本願念仏集』の書写を許されました。
このことは、法然上人が親鸞聖人を単なる弟子としてではなく、阿弥陀仏の本願について深く理解し、後世に伝えていくべき重要な存在として認めていたからだと考えられています。
親鸞聖人の感激は、主著の教行信証後序に、書写を許されたことを次のように書かれていることからも伝わってきます。
元久乙の丑の歳、恩恕をこうむりて「選択」を書しき。(中略)
出典:『教行信証後序』
『選択本願念怫集』は、禅定博陸の教命によりて選集せしめたもう所なり。真宗の簡要、これに摂在せり。見る者、諭りやすし。誠にこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り、日を渉りその教誨をこうむる人千万なりと雖も、親といい疎といい、この見写を獲る徒、甚だもってかたし。爾るに、既に製作を書写し御影を図両せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よって悲喜の涙を抑えて由来の縁を註す。
意訳:1205年33歳の年、私は法然上人の恩寵を受け、『選択本願念仏集』を著しました。
(中略)『選択本願念仏集』は、九条兼実公のご教命を受けて、法然上人が経典の中から選述遊ばされたご著述です。浄土真宗の肝要と、他力念仏の奥義が、この中に欠け目なく全て収められています。一度この書を拝見する者は、何人も他力念仏の奥義を会得できるでしょう。まことに世にも稀有なる最勝の文であり、意味甚深たる無上の宝典です。
長年の間、師の教えを受ける人は数えきれないほど大勢いますが、親しい弟子であろうとそうでない者であろうと、この『選択本願念仏集』を手にして書き写す者は、非常に稀です。
それなのに、私はすでにこの素晴らしい著作を書き写すことができ、さらに師の御影も描くことができました。これ専念正業の徳であり、これ決定往生のしるしであります。それゆえに仏恩師恩の忝さを感じ、悲喜の涙を抑へて、ことのここに至れる緣由を書き註すのです。
親鸞聖人は、選択本願念仏集の書写を許されたことなど、法然上人の御在世を偲び、師を慕い、師の教によって救われた感慨を告白されており、教行信証を制作する由来となったことを言われています。
選択本願念仏集の書写をされたということは、親鸞聖人にとっても、また浄土真宗にとっても大変な出来事でした。
岡崎と吉水の間を往来する日々は、親鸞聖人にとって、浄土真宗の教えを血肉化し、その思想を深める上でかけがえのない時間でありました。
親鸞聖人はあしかけ六年、流罪によって離別するまで、この吉水の草庵で法然上人の慈薫をうけられました。
観無量寿経註・阿弥陀経註


昭和18年(1943年)2月、西本願寺の寺宝調査の際に親鸞聖人の『観無量寿経註・阿弥陀経註』が発見されました。
観無量寿経と、阿弥陀経について親鸞聖人が註釈を書き込まれたものです。
薄い料紙を36枚つなぎ合わせた巻物で、前半には『観無量寿経』が、後半には『阿弥陀経』が丁寧に書き写されています。
親鸞聖人は、ただ経文を書き写すだけでなく、文字の異同を比較検討し、さらに行間や上下の余白、果ては紙の裏にまで、善導大師や元照などによる解説書からの引用をびっしりと書き込まれています。
ところで、この著作の本来の題名は『観阿弥陀経』だったのではないかと指摘されています。
その根拠は、高田派専修寺に伝わる存覚上人による写本にあり、写本の奥書には『観阿弥陀経』という題名と、「二経一巻」(二つの経典を一つにまとめたもの)という説明が記されているからです。
もちろん、『観阿弥陀経』という名の経典はありません。
しかし、親鸞聖人が『観無量寿経』と『阿弥陀経』という二つの重要な経典を一つにまとめ、そこに詳細な注釈を施した著作に対してこの名が付けられている点に注目し、二つの経典を決して切り離すことなく、一体のものとして深く理解する必要があるという、親鸞聖人の強いメッセージが込められていると解釈されています。
その意味で、「観阿弥陀経」という題名は、教えの本質を解き明かす上で非常に重要な鍵となっています。
また作家の井上靖は、『観無量寿経註』について、次のように感想を述べています。
親鸞について、最初に感動したのは、彼が書写した自筆本『観無量寿経註』なるものを見た時である。
これは国宝に指定されていて、数年前の親鸞聖人誕生800年の記念展観でお目にかかったのであるが、有体に言って、世の中には怖いものがあるものだと思った。
観無量寿経を書き写し、その行間、余白、欄外ははもちろんのこと、
紙背全面にわたって、ぎっしりと細字で唐代高僧の経註の書き込みがある。
謂ってみれば、これは親鸞の観無量寿経の勉学ノートである。
書き入れてある経註から見て、この書写は、親鸞の流罪になる前の、つまり35歳以前のものとみるのが妥当だとされているそうであるが、親鸞は青年期から壮年期にかけて、このような勉学の時代を持っていたのである。
私は4、5年前に『観無量寿経註』の覆刻版を手に入れ、時に巻ものを繙くことがあるが、いつもその度に襟をたださざるを得ない思いにさせられる。
1つのことを理解するということは、これだけの手順と、これだけの精神集中度の持続を要する作業なのだ、そんな思いに打たれる。
出典:『私の中の日本人 続』
親鸞聖人は、『観無量寿経』、『阿弥陀経』についてこれだけの熱意を持って註釈され、学ばれていたのですから、『大無量寿経』にいたっては、さらに多くの時間と熱量をかけられていたことと推察されます。
33歳 改名
親鸞聖人は、33歳のときに、「綽空」から「善信」に改名したとされています。
34歳 三大諍論
法然門下時代、普段はとても穏やかな親鸞聖人ですが、仏教が歪曲される事態になると、命がけで正そうとする激しい一面も持っていました。
そのため、同じ教えを学ぶ法友とでさえ、大きな論争になることが度々ありました。
中でも特に有名な三つの大論争があり、三大諍論といいます。
その三つとは、「体失不体失往生の諍論」「信心同異の諍論」「信行両座の諍論」です。
詳しくは以下の記事をお読みください。
親鸞聖人は、法然門下の中でも、孤立していかれたと考えられています。
35歳 承元の法難
承元元年(1207年)35歳の時、親鸞聖人は住みなれた京都を追放され、越後国へ流刑に遭われました。
これを「承元の法難」といいます。
ほかにも、恩師・法然上人は四国・土佐へ流罪。住蓮房・安楽房は死罪。隆盛を極めた吉水道場の閉鎖、念仏停止と教団解散……。
日本史上最大規模の、国家権力による宗教弾圧事件に発展したのです。
法然上人が、京都東山の吉水に草庵を結ばれ、阿弥陀仏の本願を説かれるや、農民、町民、武士にいたるまで、あらゆる階層の人々が群参するようになりました。
それはしかし、既成仏教教団のねたみと反発をかう結果になりました。
当時の仏教界を牛耳っていたのは、「南都北嶺」、つまり奈良の興福寺(法相宗)と比叡山の延暦寺(天台宗)であります。
数百年の伝統と権威を誇示する延暦寺や興福寺が、「このままでは、日本中が念仏宗になる」と恐れたほど、浄土仏教の発展は著しかったのです。
しかも、真実の仏法を知らされた人々は、「阿弥陀仏一仏を信じよ、阿弥陀仏以外の一切の諸仏、諸菩薩、諸神に、近寄るな、礼拝するな、信ずるな」という教えを実践し、「一向専念無量寿仏」の教えが急速に拡大したところに最大の脅威を感じたのです。
仏法上の争いは、あくまでも教義論争(法論)で決着すべきですが、仏教諸宗派との法論は、「大原問答」で、すでに決着がついていました。
教義で歯がたたなければ、あとは実力行使しかない。仏教諸宗派は、権力者を動かし、浄土仏教を弾圧しようと企てました。
比叡山延暦寺と奈良興福寺が、念仏停止を求め、何度も朝廷へ直訴状を出しています。中でも有名な直訴状は、興福寺の僧・解脱貞慶が、法然上人ら吉水教団の撲滅を願い出た「興福寺奏状」です。
内容は、以下のようなものでありました。
第1には、わが国にはすでに仏教の宗派が8宗もあるのだから、新たに浄土宗なるものを立てる必要は全くないのである。それなのに法然らは天皇の許可も得ずに一宗を名乗っているのは僣越至極のことである。
第2には、法然らは阿弥陀仏の救いの光明が専修念仏者のみを照らし、他の仏教者にはそれて全く当たっていない絵図をわざと描き、それをもてはやしているのは大変けしからぬことである。
第3には、法然らは阿弥陀仏だけを信じて供養し、仏教徒にとって最も大切な釈迦牟尼仏を軽んじて礼拝供養しないのは本末顛倒も甚だしい。
第4には、法然らは他宗を誹謗して、仏像を造ったり寺や塔を造るという善行をやっている者たちを、あざけり謗っていることは言語道断の振る舞いといわねばならぬ。
第5には、日本では古来仏教と神道とは固く結びついている。だからこそ伝教や弘法のような高僧たちも、みな神々をあがめ尊んできたのである。それにもかかわらず法然らは、「もし神を拝めば必ず地獄に堕ちるぞ」と言いふらし世人を迷わせている。もし法然らの言が正しければ、伝教や弘法は地獄に堕ちていることになる。法然は伝教や弘法たちより偉いとでも思っているのだろうか。このような暴挙は即刻禁止させないと大変なことになる。
第7には、念仏というのは本来、「阿弥陀仏のことを心の中で念じる」ことなのに、法然らは称えさえすればよいと思って、口で称えることを念仏だと教えている。とんでもない仏教の曲解である。
第8に、彼らは、「囲碁や双六、女犯や肉食、何をやってもかまわぬ」といって、仏法の戒律を軽蔑している。その上、「末法の今日、戒律を守る人間なんて街の中に虎がいるようなものだ」と暴言し、尊い仏法を破壊している。
第9には、仏法と王法とはちょうど、肉体と心の関係で完全に一致すべきであるのに、念仏者たちは他の諸宗と敵対し我々と協力しようとはしない。このような排他的独善的な邪宗は1日も早くこの世から抹殺しなければならない。
そして最後に、「このたびのように全仏教徒が一丸となって訴訟するという前代未聞のことを致しますのは、事は極めて重大だからであります。どうか天皇のご威徳によって念仏を禁止し、この悪魔の集団を解散し法然と、その弟子たちを処罰していただきますよう興福寺の僧綱大法師などがおそれながら申し上げます」と結んでいます。
朝廷の権力者が恐れるのは、延暦寺や興福寺の僧兵による強訴でありました。大寺院は、僧兵を動かして、自らの要求を、朝廷や公家に無理やり認めさせようとしたのです。
これら、激しい抗議行動が続く中、朝廷にあっては、九条兼実公はじめ、法然上人支持派の運動で、なんとか穏便に処理されていましたが、反対派は、常に、弾圧の機をうかがっていました。そういう緊張した空気の中、突発したのが、松虫鈴虫事件だったのです。
比叡山や興福寺は、この事件をもとに攻撃を強化しました。怒り狂った上皇は、これら旧仏教と結託し、法然門下に弾圧を加えました。
念仏は停止。一向専念無量寿仏の布教は禁止。さらに、法然上人は四国・土佐へ流刑。親鸞聖人には死刑が宣告されました。
しかし、九条兼実公の並々ならぬ計らいにより、越後国・直江津、今の新潟県上越市へ流刑ということになったのであります。
親鸞聖人の35歳までのご生涯は、映画「親鸞 人生の目的」に描かれていますので、映画も御覧ください。

編集後記
親鸞聖人の法然門下時代は約6年であり、90年のご生涯からしたらわずかだったように思いますが、浄土真宗の礎を築くために、とても深く重要な時間を過ごされました。
法然上人と親鸞聖人の信頼関係はとても厚く、親鸞聖人の毎日は、少しでも法然上人から教えていただいたことを自分の血肉とし、阿弥陀仏の本願を明らかにすることに生きておられたのだと、様々な資料からも拝察できます。
法然上人から厚く受けられた薫陶は、後に浄土真宗の根本聖典である『教行信証』となりました。『教行信証』には阿弥陀仏の本願の厳存と、そこまでの道程が最も明確に書き記されてあります。
また肉食妻帯や三大諍論をされれば、大変な非難攻撃や、法然門下での孤立は避けられません。浄土宗系の資料にはほとんど聖人のお名前がでないことからも孤立されていたことが伺えます。さらに前代未聞の法難にも遭われました。
しかしどんな非難攻撃をものともせず、法然門下時代から、阿弥陀仏の本願を純粋に明らかにし、有縁の方々に伝えていかれました。
私たちも命がけで伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を、浄土真宗親鸞会京都会館で聞かせていただきましょう。