今から850年以上も昔、平安時代の末期。
貴族が華やかな暮らしを送る一方で、多くの人々が争いや苦しみの中にいた時代。
京の都の南、日野の里で一人の男の子が産声をあげました。藤原氏の流れをくむ、恵まれた家柄の生まれ。
この子が、のちに世界の光と仰がれる親鸞聖人です。
今回は親鸞聖人の京都におけるゆかりの地を紹介しながら、親鸞聖人の軌跡をたどります。
【幼少期】日野の里での誕生

1173年、藤原氏の名門・日野家に生まれた親鸞聖人。父は皇太后宮大進という高位の貴族でした。
法界寺は日野家の菩提寺で、親鸞聖人誕生の地と伝えられています。
物質的には何不自由ない環境でした。
法界寺(日野薬師)
- 京都市伏見区日野西大道町19
- 京阪バス「日野薬師」下車
- 9:00~17:00(冬季は16:00まで)
日野誕生院
- 同上(法界寺に隣接)
- 拝観無料
親鸞聖人の誕生の地については、こちらの記事で詳しく書いています。

しかし幼い親鸞聖人(幼名:松若丸)にも、容赦なく無常の嵐は襲ってきます。
4歳のとき、父君・有範卿と悲しい別れをなされ、以後杖とも柱ともたのみとしておられた母君もまた、8歳のときに亡くなられました。
頼りなき孤独の身となられた聖人は、しみじみと人の世の無常を感じられ、浮世のことごとくは、風前の灯と痛感なされました。
時に、京の内外へは、諸国の源氏が蜂起したとか、近くは木曽義仲が大軍を率いて都へ攻め上るとかと、警報は頻々と伝えられていました。一盛を誇った平家一門も、清盛入道が悶死、狼狽ひとかたでないころであったのです。
若くして両親に死別するということは、人生の大きな不幸です。そして世間は、まるで修羅道のようなありさま。見るもの聞くもの悉く悲惨の極みで、松若丸は人生内外の悲哀に直面されました。
【出家】青蓮院(9歳)

養和元年(1182年)、9歳の春、松若丸は出家得度の意を固め、叔父の範綱卿に手をひかれて、若葉に染まった京都東山の青蓮院を訪ねられました。
範綱「どうしても、出家したいのか」
松若丸「はい、次は私が死んでいかなければならないと思うと、不安なんです。何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです。どうか、お許しください」
範綱「そうか。……分かった。もう、何も言うまい」
青蓮院は比叡山62代の座主であり、松若丸の遠縁にあたる慈鎮和尚の寺です。
青蓮院で得度を行い、天台宗の僧侶となられます。
次の一首は、得度の儀式が延期されると知った時に詠んだ歌です。境内の歌碑には今もその歌が刻まれています。
明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
意訳:「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は、桜の花よりも、はかなきものと聞いております。明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか 」
青蓮院門跡
- 京都市東山区粟田口三条坊町69-1
- 地下鉄東西線「東山駅」より徒歩5分
- 大人500円
- 9:00~17:00
親鸞聖人の出家や青蓮院について詳しくは以下の記事をお読みください。

【修行時代】比叡山延暦寺(9歳〜29歳)

無常に驚かれ、9歳で仏門に入られた親鸞聖人は、29歳までの20年間、法華経の修行に全身全霊で打ち込まれました。
比叡山延暦寺は、約1200年前に最澄が開いた天台宗の総本山です。インドの霊鷲山、中国の天台山と並び、法華経の三大道場の一つに数えられます。
標高848mの比叡山全域を境内とする寺院で、東塔・西塔・横川の三つのエリアに分かれ、広大な境内は甲子園500個分もの広さがあります。
比叡山延暦寺
- 滋賀県大津市坂本本町(京都府にもまたがる)
- 京都側:叡山電車→ケーブル→ロープウェイ
- 滋賀側:JR湖西線「比叡山坂本駅」→バス→ケーブル
- 東塔:9:00~16:00(通年)
- 西塔・横川:9:00~16:00(3~11月)、9:30~16:00(12~2月)
- 延暦寺諸堂巡拝料:大人1,000円、中高生600円、小学生300円
- ユネスコ世界文化遺産
親鸞聖人のご修行と、比叡山延暦寺については以下の記事に詳しく書いています。

赤山明神:玉日姫との出逢い(26歳)

親鸞聖人が26歳のとき、京都市街を離れ、比叡山の麓の赤山明神(現在の赤山禅院)を通りかかられた際、美しい女性・玉日姫と出会いました。
この出会いは親鸞聖人にとって、真実の仏教とは何か、深く悩み苦しむきっかけとなりました。
玉日姫: 「私には深い悩みがございます。どうか山にお連れください」
と頼む玉日姫に対し、
親鸞聖人: 「それは無理です。あなたもご存知の通り、このお山は、伝教大師が開かれてより、女人禁制の山です。とても、お連れすることはできません」
と断ります。
しかし玉日姫は鋭く問いかけました。
玉日姫: 「『涅槃経』には『一切衆生悉有仏性』とあります。すべての人に仏性があるのに、なぜこのお山の仏教は女を差別するのでしょうか?」
何も答えられない親鸞聖人。
玉日姫: 「どうか、すべての人が平等に救われる教えを明らかにしてくださいませ」
長年学んできた仏教への根本的な疑問を、この女性は鋭く突いたのです。
この後、親鸞聖人の苦悶はますます深まるばかりでした。
赤山禅院(せきざんぜんいん)
- 旧称: 赤山明神(明治時代まで)
- 宗派: 天台宗(比叡山延暦寺の別院)
- 所在地: 京都市左京区修学院開根坊町18
- 拝観時間: 9:00~16:30
- 開門時間: 6:00~17:00
- 拝観料: 無料(自由拝観)
- 叡山電車: 修学院駅下車、徒歩20分またはタクシー5分
- 地下鉄: 烏丸線松ヶ崎駅下車、タクシー7分
- 市バス: 5、31、65系統「修学院離宮道」下車、徒歩15分
赤山明神や玉日姫との出逢いについては、下記をお読みください。

無動寺谷大乗院:大乗院の夢告(28歳)

無動寺谷大乗院は、親鸞聖人が出家後、最初に勉学された場所で、1194年(建久5年)に慈鎮和尚の兄である九条兼実公の布施により建立されました。
19歳のとき親鸞聖人は磯長の夢告であと命が10年と告げられます。
「後生の一大事」——死後の行き先への不安は日増しに強くなっていきます。
そこで親鸞聖人は夢告から9年が経った28歳の時、21日間(三七日間)大乗院にこもり修行されています。
参籠の満願、12月30日の午前2時。ついに如意輪観音が夢に現れ、親鸞聖人に重要な示唆を与えました。
しかし、それでもなお「後生の一大事」の解決には至りませんでした。
無動寺谷大乗院
- 所在地: 比叡山延暦寺東塔無動寺谷内
- アクセス: 延暦寺から徒歩(山道)
大乗院の夢告については以下の記事をお読みください。

六角堂:救世観音の夢告(29歳)

20年という歳月は、希望から絶望への変化でもありました。
親鸞聖人: 「果たして、この山に、私の救われる道があるのだろうか。煩悩に汚れ、悪に染まった親鸞を、導きたまう大徳はましまさんのか…」
求道に、精も根もつきはてられた聖人は、20年間の天台・法華の教えに絶望なされ、ついに、下山を決意せられました。29歳のときであります。
山を捨てられた聖人は、後生の解決一つを求めて、京都の六角堂の救世観音に、100日間の祈願を決意されました。
六角堂は、聖徳太子の建立されたものです。磯長の夢告で「10年の命」と宣告されてから、ちょうど10年。激しい無常と、罪悪に責めたてられ、聖人の求道は決死であったのです。
95日目の暁、夢に現れた聖徳太子から啓示を受けましたが、後生の一大事の解決はできず、京都の町へ出ていかれます。
六角堂(頂法寺)
- 京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248
- 地下鉄「烏丸御池駅」5番出口より徒歩3分
- 境内無料
- 6:00~17:00
六角堂の夢告について詳しくは、こちらの記事をお読みください。

【転機】四条大橋(29歳)

29歳の3月中旬、比叡山を下り京の町をさまよっていた親鸞聖人は、四条大橋で思いがけず安居院聖覚法印に出会いました。
聖覚法印は比叡山で親鸞聖人と共に修行していた僧侶で、親鸞聖人より先に法然上人の教えに帰依していました。
聖覚法印は急いで法然上人から真実の仏教を聞かせていただくよう、導かれました。
四条大橋
- 所在地: 京都市を流れる鴨川に架かる四条通の橋
- 歴史: 1142年(永治2年)に最初の橋が架けられたとされています 。現在の橋は 1942年(昭和17年)に完成した橋長65m、幅員25.0mの鋼桁橋
- 東側: 京阪本線祇園四条駅からすぐ(祇園・八坂神社方面)
- 西側: 阪急京都河原町駅から徒歩2分(河原町・先斗町方面)
- 市バス: 「四条河原町」「祇園」停留所
聖覚法印と親鸞聖人の出会いについては、以下の記事をお読みください。

【廻心】安養寺・吉水の草庵(29歳)

現在の円山公園一帯にあった法然上人の草庵跡。ここで親鸞聖人は「善人も悪人も、老いも若きも、男も女も、生まれや才能も問わず、すべての人が平等に阿弥陀仏の本願で救われる」という真実の教えに出会います。
法然上人: 「釈尊が、この世におでましになったのは、阿弥陀仏の本願一つを、説かんがためでありました。(略)まことに、みなの人、一日も早く、阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。いかなる智者も愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、救われるのです。よくよく聞いてください」
安養寺は吉水の草庵の中で東の新房といわれる場所にありました。今では親鸞聖人の旧跡地となっています。
法然上人は、阿弥陀仏の本願一つを説かれ、親鸞聖人は阿弥陀仏の本願によって、救いとられたのです。
安養寺(吉水草庵跡)
- 京都市東山区円山町
- 市バス「祇園」下車、徒歩約15分
法然上人と親鸞聖人の出会いについては、以下の記事に詳しく書いています。

【門下時代】岡崎での居住(29歳〜35歳)
法然上人から阿弥陀仏の本願を聞かせていただく際の居住地として、京都の岡崎の地に草庵を結ばれたといわれます。ここは現在の岡崎別院の地であったと伝えられています。
親鸞聖人は、約6年間、法然上人から直接ご教導を賜りました。
聖人のものすごい勉学の跡の一端が、いまも伝わっています。
後生の一大事、どうすれば助かるのか。ご自身が20年間打ち込まれた聖道仏教では一人も助からない、浄土仏教・阿弥陀仏の本願こそ、全人類の救われる唯一の道であると親鸞聖人は明示されました。
承元の法難(1207年)
法然上人の元へ参拝者が多く集まると、各宗派から妬みや恨みを買うこととなりました。
当時、法然上人に対して教義的に到底太刀打ちできないと知った仏教諸宗派は、権力者の力を借り、浄土門の仏教に痛手を負わせようとします。
やがて後鳥羽上皇による大弾圧が起きることとなり、念仏布教は禁止、教団は解散となり、法然上人は土佐(高知)へ、親鸞聖人は越後(新潟)へ流刑となってしまいました。
真宗大谷派 岡崎別院
- 住所: 〒606-8335 京都市左京区岡崎天王町26
- 地下鉄東西線「蹴上駅」 1番出口より、徒歩約15分
- 京阪電車「神宮丸太町駅」 5番出口より、徒歩約20分
法然門下時代の親鸞聖人については、以下の記事をお読みください。

【晩年】五条西洞院や善法院坊(63歳〜90歳)
親鸞聖人は、60歳を過ぎて関東から京都に戻られました。最初は岡崎の地に住んでいたといわれ、その後は現在の光圓寺にあたる五条西洞院や、現在本願寺角坊と言われている善法院坊に住んだと言われます。
そこからは直接訪れてきたお弟子へご教導くださったり、手紙で遠方のお弟子や門徒の方とやりとりをしたりなど、ご教導くださっています。
また70歳を過ぎられてからたくさんのご著書を執筆され、阿弥陀仏の本願を明らかにされました。
主な著作は70代後半から、88歳まで、次々と書き著され、それをお弟子に下付されています。
お年を召されたとはいえ、微塵も衰えられることのない、聖人のご布教への熱意が感じられます。
浄土真宗大谷派 光圓寺
- 京都市下京区松原通西洞院東入藪下町7
- 京都市営地下鉄烏丸線「五条駅」より徒歩約8分
- 京都市営地下鉄烏丸線「四条駅」より徒歩約10分
浄土真宗本願寺派 本願寺角坊
- 京都市右京区山ノ内御堂殿町25
- 京都市営地下鉄東西線「太秦天神川駅」より徒歩約7分
- 京福電鉄嵐山本線(嵐電)「山ノ内駅」より徒歩約4分
親鸞聖人の晩年のご活躍については、以下の記事をお読みください。

【ご往生】親鸞聖人御荼毘所(90歳)

弘長2年(1262年)11月28日、親鸞聖人は洛中の善法院(または五条西洞院)にてご往生なされました。
そのご遺体は、翌29日に東山の鳥辺野南辺にあった延仁寺(えんにんじ)という寺院で荼毘に付されました。これが「親鸞聖人御荼毘所」の由来です。
荼毘に付された後、ご遺骨は末娘の覚信尼(かくしんに)や門弟らによって拾われ、鳥辺野の北にある「大谷」の地に納められました。そして、文永9年(1272年)に覚信尼が門弟の協力を得て、この大谷の地に六角の廟堂を建て、親鸞聖人の御影(ごえい)を安置しました。これが大谷廟堂です。
当時の延仁寺は後の戦乱などで荒廃し、正確な場所はわからなくなっていましたが、江戸時代から明治時代にかけての調査により、現在の場所が比定されました。
親鸞聖人の御歌
宝尋という人による「親鸞聖人の御歌」の一節には次のように描かれています。
弘長二年霜月の下旬
八日の午の刻老聖人は
かなしくも如来の御国へおもむかる
妙花降りて愁あり
紫雲たなびき風薫り
万有闇し大聖の別れぞ惜しむしるしあり
大意: 弘長二年十一月二十八日、親鸞聖人は悲しくもお亡くなりになり、弥陀の浄土に還帰なされた。濁世の妙花であった聖人が亡くなられ、みな、世界が闇黒になったように悲しんだ。人ばかりではない。天地自然までが別れを惜しみ、そのしるしとして御臨終には紫雲がたなびき、風が薫るほどだった。
親鸞聖人御荼毘所
- 大谷本廟(西大谷)の北側、鳥辺山墓地内
- 特徴: 石柵で囲まれ、中央に石碑が建てられています。
- 京都市バス:206系統、100系統などで**「五条坂」バス停**下車。バス停から徒歩で約10分〜15分。
親鸞聖人の御臨終時のことについては、以下の記事に詳しく書いております。

編集後記
これまで多くの高僧方が日本に現れましたが、親鸞聖人ほど「なぜ生きる」の答えを明示された方はおられません。
私たちは親鸞聖人の御恩に感謝し、御恩に報いられるよう、浄土真宗親鸞会京都会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。

