今回は、親鸞聖人がなぜ出家得度をなされたのか、その理由について解説します。
出家された際に詠まれた、「明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」の意味についても説明します。
得度の意味
得度とは、家を出て、髪を剃り、僧・出家者となること。
本来の意味は、生死界を海に喩え、涅槃界を彼岸とし、生死の海を越えて涅槃に到るのを度といい、生死の海を渡るという意味であり、得度とは生死海を渡ることを得るという意味である。(参考:『真宗大辞典』)
平安時代末期の動乱
親鸞聖人がお生まれになられた1173年は、平安時代の終わり頃でした。
出生の地はこちらの記事を御覧ください。

かつて栄華を誇った藤原氏の勢力は衰え、代わって台頭してきた平家が権力を握っていました。
『平家物語』の内容の一部を意訳すると、
「政治の要職は平家の者ばかり。まるで平家以外に人がいないような状態です」
「すでに、日本全体の半分以上の国を、 平家が支配するようになりました」
「平家の邸宅の門前には、来訪者の車があふれています。中国大陸から、あらゆる金銀財宝が集められ、何一つ欠けているものはありません」
平家は西日本を拠点に海上交易を独占し、中国との貿易でも巨万の富を築き上げました。
しかし、平家の繁栄はわずか20年ほどで崩壊します。
源氏との戦いに敗れ、都から西へ逃れた平家一門は、最後は壇ノ浦の戦いで滅亡していきました。
『平家物語』は、次のように記しています。
豈図りきや、忽に禮儀の郷を攻め出だされて、泣々無知の境に身を寄せんとは、昨日は雲の上にて雨を降す神龍たりき、今日は肆の遂に水を失ふ枯魚の如し。禍福道を同じうし、盛衰常を反す、今目の前にあり。誰か是を悲まざらん。
引用:『平家物語』
意訳:誰が予想したでしょうか、突然、京都 から迷げ出して、泣く泣く辺境の地を流浪する身になろうとは……。
昨日は、雲の上に昇って雨を降らす竜にたとえられるほどの勢いであった平家も、今日は、店先に並べられた魚の干物のような有り様です。
禍福(災いや幸福)は自分の行いの善悪の結果として現れてきます。
盛衰(繁栄と没落)が手のひらを返すように、めまぐるしく変転していきます。この道理が、歴然として、今、眼前にあるのです。これを悲しまない人があるでしょうか。
京都はこの政変によって誰もが世の無常を感じずにはおれませんでしたが、無常の嵐はそれだけではありませんでした。
相次ぐ自然災害と飢饉
親鸞聖人の幼少期、京都は度重なる災害に見舞われました。
聖人が4歳の春(安元2年・1176年)と7歳の秋(治承3年・1179年)には大地震がおそいました。
また5歳の春(治承2年・1178年)には、京都市中の3分の1が焼け野原と化した「「治承の大火」に見舞われています。
養和元年(1181年)には養和の大飢饉がおそい、栄華のよそおいの都路は、死人の臭いで通ることができなかったと伝えられています。
都の一部地域だけでも2ヶ月間で4万2千人以上が亡くなったと記録されています。
また1185年3月に平家が滅亡してから、3ヶ月後には「文治地震」といわれる大地震が発生しました。
このような動乱の時代の最中に、親鸞聖人に最大の悲劇がおとずれます。
出家された動機
親鸞聖人(幼名:松若丸)は4歳で父君を、8歳で母君を亡くされました。
幼くして両親を失った悲しさ、寂しさは、計り知れないものです。
しかし、松若丸には、もっと大きな苦しみがありました。
「やがて死ぬのに、なぜ生きるのか」
「父も母も亡くなった。次は自分の番だ。死んだらどうなるのか」
「死んだらどうなるのか」という生死の大問題の解決こそ、親鸞聖人の出家の動機でありました。
この大問題を解決するには仏教を聞き求めるしかないと決意し、養和の大飢饉がはじまった1181年、聖人9歳の時に伯父の藤原範綱卿につれられ、天台宗の寺院である青蓮院で得度を受けられたのでした。
覚如上人の書かれた『御伝鈔』には次のように書かれています。
興法の因うちにきざし、利生の縁ほかにもよほしゝによりて、九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿(干時従四位上、前若狭守後白河上皇の近臣也、聖人の養父)、前大僧正(慈円、慈鎮和尚是也、法性寺殿御息、月輪殿長兄)の貴坊へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき、範宴少納言公と号す。
引用:覚如上人『御伝鈔』
意味:興法利生の因縁に催されて、親鸞聖人は、松若丸と呼ばれていた9歳の春、養父の藤原範綱卿に付き添われて、慈鎮和尚のおられる青蓮院へ参り、髪を剃って出家しました。その時、範宴少納言(法名が範宴、公名が少納言)という名を賜りました。
親鸞聖人は、並々ならぬ覚悟をもって慈鎮和尚を訪ねました。
青蓮院とは
親鸞聖人が出家得度したとされている青蓮院は、京都会館から、歩いて30分ほど場所にあります。
青蓮院は、日本天台宗の開祖最澄が比叡山に設けた複数の僧侶住居のうちの一つ「青蓮坊」がその始まりでした。
円仁や安恵など、後の天台座主となるような僧たちが住持し、東塔地区の中心的な存在となります。
平安時代末期になると、藤原師実の子で、第十二代の住持となった行玄に、鳥羽法皇が深く帰依し、第七王子を弟子として送り込みました。これを機に京都に新たな殿舎が建てられ、寺号も青蓮院と改められ、皇族や公家が住職を務めた寺を意味する「門跡寺院」となります。
初代門主は行玄で、以降、明治時代に至るまで、門主の地位は主に皇族か五摂家の子弟が継承していきました。
青蓮院が最も栄えたのは、第三代門主の慈鎮和尚の時代でした。九条兼実の弟である慈鎮和尚は、四度にわたり天台座主を務め、その影響力は日本仏教界全体に及びました。
また、当時、浄土宗の法然上人や、浄土真宗の親鸞聖人に対しても理解を示し、彼らを延暦寺の圧力から守りました。
特に親鸞聖人は慈鎮和尚のもとで出家したことから、青蓮院は浄土真宗のゆかりの地とされており、境内北側には親鸞聖人の剃髪した髪を祀る植髪堂が現存しています。
親鸞聖人の得度式
慈鎮和尚は当時、比叡山延暦寺の天台座主を4度も務めた高名な僧侶。
松若丸は、そんな慈鎮和尚に出家得度の願いを申し出たのです。
慈鎮和尚は松若丸の願いを喜んで受け入れましたが、「得度の式は明日行おう」と告げました。
すると松若丸は範綱卿の静止を振り切り、紙と筆をもって一首の歌を詠みます。
明日ありと 思う心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは
慈鎮和尚は、
「おお……」
と感嘆の声をもらします。
松若丸は頭を下げて、「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は、桜の花よりも、はかなきものと聞いております。明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか 」と懇願するのでした。
「そこまで、そなたは無常を感じておられるのか。分かった。では、早速、得度の式を挙げよう。」
快諾した慈鎮和尚は、その日のうちに、松若丸の髪を剃り、天台宗の僧侶となる儀式を執り行ったのです。

慈鎮和尚が驚いた理由
9歳であった松若丸は、「『明日もある』と思う心は、ばかげた心ではないでしょうか」と、鋭く切り込んだところに、慈鎮和尚は驚きました。
私たちは「明日も生きている」と思い、明日になると「明日も生きている」、さらに明日になると「明日も生きている」と繰り返すうちに、まるで永遠に生きられるかのように強く思い込んでいます。
しかし、それは大きな誤りだと松若丸は指摘したのです。
私たちは毎晩、翌日の到来を信じて眠りますが、実際には眠っている間に命を落とす人もあります。
この世は火宅無常の世界であり、事故や災害によっていつ命を失うかもしれません。
そして、死に直面した時に最も問題となるのが「死んだらどうなるのか」です。
安らかな場所に行けるのか、地獄で苦しむのか、それとも無に帰するのか―
これらの不確かさは、仏教で言う「後生暗い心」という不安を引き起こします。
死んだらどうなるか、ハッキリしない心を、仏教では「後生暗い心」といいます。
後生暗い心を解決するために、松若丸は出家を決意し、比叡山での厳しい修行の道を選んだのでした。
編集後記
私たちが生きる世界は、無常の嵐が吹き荒れています。
その中で、最も激しい無常が、私たちの命の無常です。
死に際したとき、「死んだらどうなるのか」という後生暗い心が大問題となります。
親鸞聖人と同じように常に無常を見つめながら後生暗い心の解決のために、浄土真宗親鸞会京都会館で阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。