親鸞聖人の家系と誕生日と生誕の地

今回は、親鸞聖人の誕生日と、生誕の地など、ご出生について記事にしました。

記事では、次のようなことがわかります。

・聖人の家系がわかる

・聖人の誕生日がわかる

・聖人の出生地がわかる

目次

親鸞聖人の家系

親鸞聖人ご自身では、どのようなご出生だったのかは明言されていませんが、様々な資料から、次のように伝わっています。

親鸞聖人は、日野家一族の家系です。

日野家は、藤原氏四家の一つ、北家真夏の支流で、公家であり、昔から京都の南部(洛南)の日野という地域に領地を持っていました。

そのため日野の地域の藤原一族は、「日野」姓を名乗ることもありました。

親鸞聖人の祖先の藤原資業(すけなり)は、今昔物語にも詩文の達人として登場し、文章博士として学問で朝廷に仕えています。

資業は後に出家し、永承6年(1051年)日野の土地に法界寺を建てました。翌年(1052年)から末法の時代となるため、浄土信仰が盛んとなり、資業も阿弥陀堂を建立しています。

藤原資業から五代目にあたるのが、親鸞聖人のお父上である藤原有範卿です。

覚如上人は、親鸞聖人の家系を、次のように伝えておられています。

夫聖人の俗姓は藤原氏、(中略)苗裔大織冠(鎌子内大臣)の玄孫近衛大将右大臣(註略)従一位内麿公(註略) 六代の後胤弼宰相有国卿五代の孫皇太后宮大進有範の子なり

(引用:『親鸞伝絵』)

意訳:親鸞聖人の俗姓(出家前の姓)は藤原氏です。(中略)藤原鎌足(内大臣)の玄孫(ひ孫の子)にあたる内麿公(近衛大将右大臣従一位)から6代後の子孫である有国卿の5代目の孫にあたる、皇太后宮大進の有範の子です。

他の資料も含め、有国以降をわかりやすく図にすると、以下のようになります。

★有国

資業

実綱

有信

____________
|                    |
宗光                実光(日野流)

経尹(『親鸞伝絵』では削除)
__________
|            |    |
★有範       宗業  範綱

松若丸(親鸞聖人の幼名)

覚如上人の『親鸞伝絵』では、有国卿から五代目が有範卿となっていますが、実際は六代目ということです。「経尹」は、「放埓(ほうらつ)」な人だったために、『親鸞伝絵』家系図から削除されているとされています。

有範卿は皇太后宮大進(皇太后の宮殿内の職で「大進」という位)として勤めていました。

母上は吉光御前といい、源氏の生まれと伝わっています。

親鸞聖人は承安3年(1173年)5月21日(旧暦4月1日)に誕生されました。

親鸞聖人の生まれ年は、親鸞聖人の書かれたものの年代の記載から、推測できます。

そして親鸞聖人のお生まれになった場所は、法界寺の近くと言われています。

親鸞聖人生誕の地

親鸞聖人は日野の里に生まれられたことから、今では、親鸞聖人生誕地として整備されています。

親鸞聖人は、4歳で父君と、8歳で母君と死別されました。

ご生誕地のすぐ近くにある法界寺が日野家の氏寺であり、裏手には日野家の廟所があります。

そこには、有範卿と吉光御前の墓が並んでいます。

親鸞聖人は公家の道を歩む事もできましたが、無常の嵐に驚かれ、伯父の藤原範綱卿(後白河法皇の近臣)に付き添われ、治承5年(1181年)に9歳で比叡山に出家されました。

当時は、源平合戦のクライマックス、治承・寿永の乱(1180年〜1185年)が繰り広げられ、また1181年には西日本一帯を襲った養和の大飢饉が起こるなど、波乱万丈の時代の中での求道となります。

編集後記

親鸞聖人がお生まれになった日野という地域は京都市の南部、京都会館から電車で約1時間のところにあります。

親鸞聖人の家系をみれば、藤原鎌足を先祖とし、公家として朝廷に仕えていたことからも、大変由緒があることがわかります。範綱卿が幼い松若丸に、将来跡継ぎとして期待するのも無理はありませんでした。

しかし親鸞聖人は、自分の家系を守ることよりも最も大事な問題に直面します。

相次ぐ父母の死に接し、親鸞聖人は、

「次に死ぬのは自分の番だ」と驚きが立ったのです。

次から次へと疑問がわいてきて、未来が真っ暗になります。

この「死んだらどうなるか分からない心」を、仏教では「後生暗い心」といいます。

「後生暗い心」を解決し、この世から永遠の幸福になることこそ、釈迦が説かれた仏教の目的でありました。

「後生暗い心」の解決を求めて、浄土真宗親鸞会京都会館で、阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

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