今回は、親鸞聖人が、吉水草庵で法然上人とお会いしたときのことを紹介します。
聖覚法印の導きについては、以下をご覧ください。

真の知識・法然上人との邂逅
親鸞聖人は吉水の草庵で法然上人と出会われたといいます。
吉水の草庵は法然上人が浄土宗を打ち立てられ、阿弥陀仏の本願を伝えられた場所です。
現在も吉水草庵跡として残っています。
吉水草庵について
青蓮院から南へ進むと円山公園に出ます。その公園の中を通り、さらに東へと登っていくと、法然上人が吉水の草庵を結ばれた跡と伝えられる慈円山安養寺があります。
安養寺の創建は最澄と言われ、その後、法然上人のおられる吉水の草庵となりました。
しかし承元の法難の弾圧の跡衰退し、一時は、慈円(慈鎮)が再建しました。「慈円山」は慈円の名前からきており、円山公園の円山は、慈円山が由来となっています。
現在は時宗の寺となっていますが、今でも法然上人、親鸞聖人の旧跡地となっています。
吉水の草庵の始まり
法然上人は43歳の時、比叡山を下り西山の広谷にいた友人の円照の庵に移られました。
円照が亡くなった後、法然上人は円照から譲り受けた広谷の庵を東山の大谷に移し、住まわれるようになります。
これが吉水の草庵の始まりです。
その後、門弟が増えるにつれて、西側に旧房、東側に新房が建てられ、門弟たちの宿舎として使われるようになりました。これらの二つの房に対し、法然上人がいらした場所は中の房と呼ばれるようになりました。
現在、中の房があった場所は知恩院の御影堂の辺り、西の旧房は知恩院の山門から西南の辺り、そして東の新房は安養寺の辺りだったようです。
親鸞聖人が法然上人のもとを訪ねられた頃は、円山公園の辺り全体が吉水の草庵であり、複数の房舎が集まっていたと考えられています。
親鸞聖人は、雨の日も風の日も吉水の草庵で法然上人から仏法を聞かれました。
親鸞聖人の真剣な聞法
親鸞聖人の奥様である恵信尼のお手紙には、その時のことがこのように記されています。
山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひけれは、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんする縁にあひまいらせんと、たづねまいらせて、法然上人にあひまいらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにもまいりてありしに
出典:『恵信尼文書』
意訳:比叡の山をいでて、六角堂に百日お籠りになられて、後生の一大事の解決を祈られると、95日の暁に、聖徳太子が偈文を口誦すると、観音菩薩が聖徳太子の姿となって示現せられました。
その夜明けにすぐに六角堂を出て、「後生の一大事、どこかに導きくださる方にお会いしたい」と思い、尋ね歩いたところ、法然上人にお会いになって、その後、六角堂に百日間こもっていらっしゃった時と同じように、再び百日間、雨の日も日が照る日にも、どのようなひどい風雨の日にも、法然上人のもとで真剣に仏法を聞かれました。
法然上人は、出家も在家も差別なく、老若男女、貧富に関係なく、すべての人が救われるのが真実の仏法、阿弥陀如来の本願であると明らかにされました。
阿弥陀如来の本願とは、あらゆる仏の先生である阿弥陀如来という仏のお約束です。
それは、どんな人も、聞く一つで、後生暗い心を晴らし、絶対の幸福に救うというお約束です。
激しい修行を積まねば、暗い心の解決はできぬと思われていた親鸞聖人にとって、どんな人も煩悩あるままで絶対の幸福に救われるとは青天の霹靂でした。
さらに経典に裏付けられた教えに、これこそ真実の仏教であり、煩悩いっぱいの自分が救われる唯一の道と確信されたのでした。
真剣な聞法を重ねられた親鸞聖人は、阿弥陀仏のお約束どおり、後生暗い心が晴れ渡り、絶対の幸福の身になられたのです。

建仁元年、親鸞聖人29歳の時でした。
教行信証には、次のように書かれています。
愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す
出典:『教行信証』後序
意訳:親鸞は、二十九歳のとき、雑行を捨てて、阿弥陀如来の本願に摂め取られたのだ。
また覚如上人の書かれた御伝鈔では、法然上人のご教導について次のように書かれています。
建仁第一の暦春のころ、隠遁の志にひかれて、源空聖人の吉水の禅房にたづねまゐりたまひき。これすなはち世くだり、人つたなくして、難行の小路迷ひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめて、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。
出典:『御伝鈔』
意訳:建仁元年の春、二十九歳の御時、親鸞聖人は比叡に絶望なされ下山、京都の吉水に法然上人を尋ねられた。深い体験と教学を尽くして、弥陀の本願真実を説き切られる法然上人のご教導によって聖人は、一念で真実信心を決定されたのである
親鸞聖人は、もし法然上人が阿弥陀仏の本願を説き切ってくだされなかったら、生まれ難い人間に生まれながら、また空しく永久の流転を続けていただろうと述懐されています。
昿劫多生のあいだにも
引用:高僧和讃
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし
意訳:苦しみの根元も、それを破る弥陀の誓願のあることも、果てしない遠い過去から知らなんだ。もし真の仏教の師に会えなかったら、人生の目的も、果たす道も知らぬまま、二度とないチャンスを失い、永遠に苦しんでいたにちがいない。親鸞、危ないところを法然(源空)上人に救われた
直ちに法然上人の弟子になられた親鸞聖人は、「こんな極悪人の親鸞を、無上の幸福に救ってくだされた阿弥陀仏の大恩は、身を粉にしても骨を砕いても返さずにおれない」と、弥陀の本願ただ一つ、生涯伝え続けられたのです。
編集後記
吉水の草庵で法然上人と親鸞聖人が出会ったという歴史的瞬間について、詳しく紹介いたしました。
法然上人の明らかにされた「どんな人も煩悩あるままで絶対の幸福に救われる」という阿弥陀仏の本願は、仏教界では革命的な教えでした。
この真実の教えに出会えなければ「このたび空しく過ぎなまし」と親鸞聖人が詠まれたように、私たちも苦しみの人生で終わるところでした。
真実を知るものは幸いなり。
真実を求めるものはなお幸いなり。
真実を獲得したものは最も幸いなり。
と教えていただきます。
法然上人から親鸞聖人へ伝わり、明らかにされた阿弥陀仏の本願を、これからも浄土真宗親鸞会京都会館で真剣に聞かせていただきましょう。