親鸞聖人の晩年 ―衰えぬ情熱で著した教えと弟子との交流

親鸞聖人は、60歳を過ぎて関東から京都へ戻り、晩年を過ごされました。

しかし、決して弟子たちとの交流を絶たれたわけではなく、手紙のやりとりや対面でのご教導を続けられていました。また、晩年の京都では多くの著作も残されています。

今回は、そうした親鸞聖人の晩年の執筆活動や弟子たちとの関わりについてご紹介します。

目次

対面と手紙で続けた弟子との交流

京都の親鸞聖人のもとには、晩年になっても多くの弟子が訪れ、直接ご教導を賜りました。

口決を伝え、面受を遂げし門徒おのおの好を慕い路を尋ねて参集したまいけり

出典:『御伝鈔』

意訳:(師から)口伝えで奥義を授けられ、直接お会いして指導を受けた門弟たちが、それぞれ師を慕い、真実の路を求めて、集まってこられました。

このように、親鸞聖人は有名無名を問わず、さまざまな弟子と面会されていました。

顕智の来訪(86歳頃)

まず、代表的なお弟子である顕智の来訪についてご紹介します。

顕智については、以下の記事もお読みください。

現在の栃木県にあたる下野国の高田専修寺の第三世であった顕智は、京都に上洛して親鸞聖人に謁見しました。

その際に聞いた「自然法爾」の法語を記録した文書が現存しており、その奥書には次のように記されています。

正嘉二歳戊午十二月日、善法房僧都御坊、三条とみのこうぢの御坊にて聖人にあいまいらせてのきゝがき。そのとき顕智これをかくなり。

出典:専修寺蔵顕智筆『獲得名号自然法爾御書』

この奥書には、顕智が親鸞聖人から直接聞いた「自然法爾」の教え(現在『正像末和讃』に収められている「自然法爾章」)を書き留めたことが記されています。

顕智のようなお弟子のおかげで、親鸞聖人の教えが数多く書き残されることとなりました。

また平太郎も何度か、親鸞聖人のもとに訪れており、たとえば熊野権現を夢にみたことについては以下の記事をお読みください。

親鸞聖人の御消息

また、遠方の弟子たちとは手紙で交流を続けられ、その書簡は40通以上現存しています。

それらの手紙は、『末燈鈔』『御消息集』『血脉文集』『高田御書』などに編纂されています。

これらの手紙で親鸞聖人は、関東の弟子たちに教えの誤解を正したり、弟子同士の争いを諌めたりしています。単なる私的な書簡にとどまらず、浄土真宗の教えを分かりやすく説いた貴重な教化文書として、今日でも大切にされています。

たとえば「悪人こそ救われる」という教えを誤解して「どんな悪事をしても構わない」と考える人たちがいました。親鸞聖人は「薬がある、毒を好んで飲め、そんなことをいう者がいるか」と諭しています。この違いがわからないのが、造悪無碍の異安心だと教えていただきます。

また親鸞聖人は京都まで慕ってくるお弟子一人ひとりを大切にされていることもお手紙からよくわかります。

親鸞聖人が関東の弟子・真仏房に当てた書簡には、次のようにあります。

このゑん仏ばう、くだられ候。こゝろざしのふかく候ゆへに、ぬしなどにもしられ申さずして、のぼられて候ぞ。こゝろにいれて、ぬしなどにも、おほせられ候べく候。この十日のよ、せうまうにあふて候。この御ばう、よくよくよくたずね候て候なり。こゝろざしありがたきやうに候ぞ。さだめてこのやうは申され候はんずらん。よくよくきかせ給べく候。なにごともなにごともいそがしさに、くはしう申さず候。あなかしこあなかしこ

出典:『真蹟書簡(第三通)』

意訳:この円仏が関東へくだってゆきます。志が深く、主などにも申しあげずに上京したのです。どうぞよしなに、信願房にも仰せられるように。この十二月十日の夜、火災にあいました。この御房はよくまあ尋ねておいでたものです。その志はありがたいほどに思います。そのへんのことは、きっと当人から申しあげるでしょう。よくよくお聞きとりください。あれこれと忙しさのまま、くわしくは申し上げません。あなかしこ、あなかしこ。

この書簡は、師である信願房に黙って京都まで来てしまった孫弟子(真仏房の弟子の、さらにその弟子)の円仏房を気遣った親鸞聖人が、真仏房に対し、信願房へのとりなしを頼んでいる内容です。

ご自身が火災に遭われたことにも触れられていますが、それにもかかわらず、訪ねてきた弟子を案じる親鸞聖人の温かいお人柄が伝わってきます。

このように直接対面で、または手紙でご教導や交流をされると同時に、親鸞聖人は数多くの著作を書き残されました。

熱烈な真実伝承のための執筆活動(70~86歳)

親鸞聖人の晩年を語る上で、もっとも驚くべきことの一つとして、衰えることのない執筆への情熱があります。

体力が衰え、周囲の人々が隠居するような年齢になっても、まるで時間との競争でもするかのように、真実の仏教を後世に伝えるため、日夜筆を執り続けられています。

特に『教行信証』六巻は、聖人の生涯をかけた渾身の主著です。関東時代から書き始められ、京都に戻ってからもお亡くなりになる直前まで推敲が続けられました。

現存する自筆本には、赤や黒のインクで何度も書き直した跡が残っており、最近では竹や木などの先端を尖らせた筆記具(角筆:かくひつ)で紙をへこませて記した書き込みが数百箇所にわたって残っていることがわかっています。

角筆が用いられた理由は、紙を汚さずに、何度も修正や追加の案を書き込むためです。

親鸞聖人が80歳を過ぎてもなお、「これで完璧だ」と満足せず、一言一句にこだわり、より正確に伝えようとされたことが伝わり、聖人の情熱は、肉眼ではなかなか見えないほどの文字にまで込められているのです。

晩年の著作や書写

50代後半から晩年にかけての著作活動を年代順にまとめました。

著作と同時に、多くの著書を書写して、お弟子に与えられています。

親鸞聖人詳細年表(1230-1262)

年号/西暦 年齢 主な出来事
寛喜2年
1230年
58歳 5月25日: 「唯信鈔」を書写する。
寛喜3年
1231年
59歳 4月: 風邪のため病床に伏し、建保2年の浄土三部経読誦の反省を恵信尼に語る。
嘉禎元年
1235年
63歳 6月19日: 平仮名の「唯信鈔」を書写する。
この年、善鸞の息男如信が誕生。
このころ、親鸞聖人は京都へお戻りになる。
仁治2年
1241年
69歳 10月14日: 「唯信鈔」を書写する。
仁治3年
1242年
70歳 9月20日: 定禅に真影を描かせる。
寛元4年
1246年
74歳 3月14日: 「唯信鈔」を書写する。
3月15日: 「自力他力事」を書写する。
宝治2年
1248年
76歳 1月21日: 「浄土和讃」「高僧和讃」を著す。
建長2年
1250年
78歳 10月16日: 「唯信鈔文意」を著す。
建長3年
1251年
79歳 9月20日: 書状「有念無念」を常陸国の門徒に送る。
建長4年
1252年
80歳 2月24日: 常陸国の門徒に書状を送り、異端の信仰に傾くことを戒める。
3月4日: 「浄土文類聚鈔」を著す。
建長6年
1254年
82歳 2月: 「唯信鈔」を書写する。
9月16日: 「後世物語聞書」を書写する。
11月18日: 「観経四帖疏」から二河白道譬喩を抄出する。
「浄土和讃」を書写する。
建長7年
1255年
83歳 4月: 「一念仏多念分別事」「自力他力事」「浄土和讃」を書写する。
5月23日: 法然上人の消息を書写する。
6月2日: 「尊号真像銘文」(略本)を著す。
6月3日: 「本願相応集」を書写する。
7月14日: 「浄土文類聚鈔」を書写する。
8月6日: 「浄土三経往生文類」を著す。
8月27日: 「愚禿鈔」を著す。
10月13日: 常陸国笠間の門徒の疑義に書状で答える。
11月: 「皇太子聖徳和讃」七十五首を著す。
12月10日: 火災にあい、住居を三条富小路の弟尋有の善法房に移す。
この年、朝円が親鸞聖人の真影を描く(安城御影)
康元元年
1256年
84歳 3月23日: 「入出二門偈頌」を著し、「唯信鈔文意」を書写する。
4月13日: 「四十八大願」を著し、門徒の疑義に答える法語を書写する。
5月28日: 弟子覚信に返信の書状を送る。
5月29日: 善鸞に義絶状を送り、性信房にこの旨を通知する。
7月25日: 「浄土論註」に加点する。
10月: 「西方指南抄」を書写する。また、「六字名号」「八字名号」「十字名号」を書き、讃を加える。同月、弟子真仏ら上洛する。
11月: 「往相還相回向文類」を著す。
正嘉元年
1257年
85歳 1月11日: 「唯信鈔文意」を書写し、弟子顕智・信証に与える。
2月: 「一念多念文意」「大日本国粟散王聖徳太子奉讃」を著す。
3月2日: 「浄土三経往生文類」を書写する。
閏3月1日: 「正像末和讃」を著す。
閏3月21日: 「如来二種廻向文」を書写する。
5月11日: 「上宮太子御記」を書写する。
6月4日: 「浄土文類聚鈔」を書写する。
8月: 「一念多念文意」、「唯信鈔文意」を書写する。
10月: 性信に真仏に書状を送り、教えを説く。
正嘉2年
1258年
86歳 6月28日: 「尊号真像銘文」(広本)を著す。
8月18日: 「三部経大意」を書写し、弟子慶信に与える。
9月24日: 「正像末和讃」を再治する。
12月14日: 顕智が善法房の親鸞聖人を訪れ、「獲得鈔旨、自然法爾」の法語を聞書する。
正元元年
1259年
87歳 9月1日: 「選択本願念仏集」延書を書写する。
閏10月29日: 高田入道に書状を送り、覚念房の死去を悼む。
文応元年
1260年
88歳 11月13日: 弟子乗信に書状を送り、飢饉のための多数の死者を悼む。
12月2日: 「弥陀如来名号徳」を著す。
弘長元年
1261年
89歳 11月: 恵信尼が病床に伏す。
弘長2年
1262年
90歳 11月28日: 善法房において入滅する。
11月29日: 東山鳥部野に葬り、荼毘に付す。
11月30日: 拾骨。
12月1日: 覚信尼が、親鸞聖人の入滅を恵信尼に知らせる。

これらの著書の中で、特に特徴的なのが和讃のご制作です。

万人に届けたいという想い

『教行信証』は、漢文で書かれた体系的で大部な書ですが、対照的なのが、「和讃」です。

「和讃」とは、和語讃嘆といわれ、仏教の教えをわかりやすく、美しい詩で表したもので、親鸞聖人の和讃は、七五調で四行を一首とされています。

浄土真宗では朝夕の勤行の時に、節をつけて読むのが定番で、特に蓮如上人が多くの人に拝読するよう勧められています。

代表的なのは「三帖和讃」で、「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」の3つから成り、約三百首が収められています。

「三帖和讃」は文学的な価値も高いといわれ、親鸞聖人を優れた詩人と評する人も多くいます。

親鸞聖人が難しい仏教用語を、庶民にでも伝わるように研鑽工夫されていたことがわかります。

親鸞聖人の著作活動を支えていたのは、単なる知識欲や学問的探求心ではありません。

それは、どんな人にも真実の仏教を理解してもらいたいという、切実で温かい願いでした。

この想いは、『唯信鈔文意』に記された次の言葉に端的に表れています。

田舎の人々の文字の意も知らず、あさましき愚痴きわまりなき故に、やすくこころえさせんとて、おなじことを、度々とりかえしとりかえし、書きつけたり。心あらん人はおかしく思うべし。あざけりをなすべし。しかれども、大方の謗りを省ず、一筋に愚かなるものを心得やすからんとて記せるなり。

出典:『唯信鈔文意』

意訳:文字をあまり読めない田舎の人たちにも、何とか分かってもらいたいと、同じことを繰り返し重ねて書いた。教養ある人はおかしく思うだろう、あざける人もあるだろう。しかし、どんなそしりも甘んじて受け、誰にでも分かるように伝えたい。この一心で繰り返し記すだけだ。

この言葉から伝わってくるのは、学者や知識人から笑われることを恐れず、むしろ文字の読めない人々、教養のない人々にこそ真実を伝えたいという、聖人の深い慈悲心です。

聖人の次の和讃が思い出されます。

「他力の信をえんひとは
 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の廻向を
 十方にひとしくひろむべし」 

出典:「正像末和讃

南無阿弥陀仏の名号を頂き、一体になれば必ず、弥陀の無量の智慧と慈悲とに生かされます。

だから「老後はゆっくりしよう」などと、この世の安楽を貪ってはいられないのです。

編集後記

晩年の親鸞聖人は、火宅無常の世の中で、大変なご苦労の中にあってのご布教でした。

しかしどのような困難があっても、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願を伝えない理由にはなりませんでした。

聖人の情熱は、同時代の人々だけでなく、後の世の人々、現代の私たちにも真実を伝えたいという、時空を超えた願いの表れでもありました。

800年という長い時を経た現在、私たちが親鸞聖人の教えに触れることができるのは、親鸞聖人の晩年になっても立ち止まらずに続けられたご苦労があったからこそです。

日夜筆を執り続けた老聖人の姿を思い浮かべたとき、その一冊一冊の著書への重みを、少しなりとも感じずにはいられません。

親鸞聖人が恩徳讃そのままに、私たちに伝えてくだされた阿弥陀仏の本願を、浄土真宗親鸞会京都会館で聞かせていただきましょう。

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