今回は、鎌倉時代初期に京都で活躍し、その信仰の情熱ゆえに命を落とした法然上人の高弟・安楽房遵西(あんらくぼうじゅんさい)について紹介します。
宮廷で雅楽を奏でた一人の才能ある青年が、法然上人の門弟となり、その美声と並外れた情熱によって阿弥陀仏の本願を広めました。そして建永2年(1207年)、京都の六条河原において斬首という極刑に処されます。浄土宗最初の殉教者として、その名は歴史に刻まれています。
現在、二人が草庵を結んだ鹿ヶ谷の地(現在の哲学の道の近く)には、その菩提を弔う「住蓮山安楽寺」が静かに佇んでいます。ここ京都の地ゆかりの、壮絶で純粋な信仰者の生涯をたどりたいと思います。
雅楽の家柄に生まれた青年官僚
安楽房遵西の俗名は、中原師広(なかはらのもろひろ)といいます。父は少外記入道中原師秀(あるいは頼秀)でした。
「中原氏」といえば、明経道(儒学)や明法道(法律)などの学問を世襲する実務官僚の家系として広く知られていますが、同時に雅楽を奏でる音楽の家柄でもありました。師広はその血を色濃く受け継ぎ、後白河法皇の近臣・大蔵卿高階泰経に仕えながら、宮中の雅楽寮(ながくりょう)に勤める、優秀な音楽家として活躍されていました。
政治の中枢に近い場所で実務を担い、最高峰の王朝文化に触れていた青年が、なぜ宮廷を捨てて仏門へと入られたのか——明確な記録は残っていません。しかし、源平の争乱による都の荒廃を目の当たりにし、世の無常を深く感じ取られた結果であろうといわれます。
やがて師広は出家して「安楽房遵西」と名乗り、法然上人の門弟として、その才能を仏道のために捧げていかれるのでした。
法然上人の高弟として——『選択集』筆録
教団内でいち早く才能を発揮された安楽房は、建久元年(1190年)秋、八坂の引導寺で行われた『六時礼讃』の法会において、住蓮房らとともに助音(読経の伴奏・唱和)を務めています。その美声は教団内外に轟き、彼の名前は急速に知れ渡っていきました。
そして建久9年(1198年)、彼の学識と才能が真価を問われる場面が訪れます。当時の関白・九条兼実の懇請により、法然上人が浄土教の根本教典『選択本願念仏集』の撰述に取り掛かられたとき、その筆録役に抜擢されたのが安楽房でした。美しい字を書くことでも知られた彼は、「道綽禅師」の章から第三章「能令瓦礫変成金」に至るまでを書き記す、教団の命運を担う重役を授かったのです。
なお、この『選択集』は、従来の聖道門を否定し、浄土門へ帰依すること絶対性を宣言した重大な書物です。その根幹部分の筆録を任されたことは、安楽房が法然上人から教理を正確に理解し、再構築するだけの深い学識を認められていた証といえます。
また、延暦寺の専修念仏停止の訴えに対抗して作られた『七箇条起請文(元久元年・1204年)』においても、安楽房は「遵西」の名で30番目に署名しています。教団の中でも法然門下として重要な人物でした。
鹿ヶ谷草庵の情熱
安楽房の布教は常に情熱的だったといいます。
彼は同門の住蓮房(じゅうれんぼう)とともに、京都・東山の鹿ヶ谷(ししがたに、現在の法然院の地)に草庵を結び道場を開きました。
安楽房はここで、唐の善導大師が定めた勤行『六時礼讃』に独自の「節(ふし)」をつけて拝読していたと言います。
雅楽で培われた卓越した感性と、「能声(のうしょう)」と称賛される美声を持つ安楽房の経文に哀嘆悲喜の音曲を乗せた「声明(しょうみょう)」は、聴衆を深い感動へと導き、多くの参拝者の心を揺さぶっていきました。
この鹿ヶ谷草庵に、身分を問わず多くの人々が参詣するようになりました。文字の読めない庶民から、宮廷生活の閉塞に鬱屈した院の女房(女官)たちなど、美貌と美声を持ち、情熱的に阿弥陀仏の本願を説く青年僧のもとへ、人々はこぞって押し寄せたのでした。
天台座主・慈円は『愚管抄』の中で、この熱狂をこのように書き残しています。
御所の女房たちは、夜さえ安楽たちを(自邸に)とどめたりする事が出てきた
出典:『愚管抄』(慈円著)
意訳:院の女官たちは安楽房らの念仏の教えに深く惹かれ、夜もその場に引き止めるほど熱心に帰依するようになっていた
こうした爆発的な広まりは、やがて旧仏教勢力の強い反発を招くことになります。
旧仏教勢力との衝突
専修念仏の急速な拡大に危機感を覚えた興福寺の衆徒は、元久2年(1205年)9月、朝廷に「興福寺奏状」を提出し、法然上人らの処罰を要求しました。
その奏状の中で、直接名指しで非難されたのが安楽房でした。
安楽房者勧進諸人
出典:『興福寺奏状』
意訳:安楽房は多くの人々を浄土門へと勧誘している
彼の布教活動がいかに広範囲に影響を与え、旧仏教勢力がいかに脅威を感じていたかがよくわかります。
さらに建永2年(1207年)の宣旨(勅宣)では、安楽房について次のように断罪されています。
沙門遵西、憑専修毀破余教、任邪執過妨衆善
出典:建永2年3月30日付 宣旨
意訳:「安楽房)遵西という僧は、阿弥陀仏の本願をたのんで余の教えを毀破し、邪執のままに衆善を妨げている
朝廷からも、他の仏教を蔑ろにする危険人物として厳しく目をつけられていたことがわかります。
公家の日記『三長記』(建永3年2月14日の記事)には、興福寺の衆徒が「法本房(法然上人のお弟子)・安楽房の両人を配流するよう重ねて訴えた」ため、後鳥羽上皇からの御教書が出されたと記録されています。
こうして安楽房は、旧仏教勢力と朝廷の双方から「最も危険な念仏者」として標的にされていきます。しかしそれでも、彼が阿弥陀仏の本願を広めることをやめることはありませんでした。
松虫・鈴虫の出家
建永元年(1206年)12月9日、最高権力者・後鳥羽上皇は紀伊国の熊野三山へ参詣に出発されました。
そのわずかな権力の空白の中で、安楽房の運命を決定づける出来事が起きます。
上皇の特別な寵愛を受けていた「松虫」と「鈴虫」という女官がいました。
二人の美しい姉妹は、以前から鹿ヶ谷草庵の念仏法会に参加し、安楽房と住蓮房が伝える「阿弥陀仏の本願」に深く心を動かされていました。
世の無常と宮廷生活の空虚さを感じていた二人は、上皇が不在となったこの機に、密かに御所を忍び出て、東山の草庵へと向かったのです。
そして、剃髪得度(出家)を強く懇願しました。
上皇の許可もなく直属の女官が出家することは、当時の社会において重大なタブーでした。
記録によれば、安楽房と住蓮房は最初、上皇の許可がないことを理由に強く躊躇されたといいます。それは当然のことでした。承知すれば、命に関わる事態を招きかねないことは、安楽房にも十分わかっていたはずです。
しかし後生の一大事の解決に対する2人のひたむきな決意に心打たれ、最終的に住蓮房が松虫を、安楽房が鈴虫をそれぞれ剃髪し、白小袖(白衣)をまとった尼僧として仏門に迎え入れたのでした。
熊野から帰京された後鳥羽上皇は、この事実を知り、激しい怒りに触れられました。
上皇の激怒は、かねてより法然上人の浄土教団の拡大を苦々しく思っていた旧仏教勢力にとって、教団を壊滅させる絶好の口実となりました。権力側はこの出家事件を、宗教上の問題としてではなく「宮中の風紀を乱した事件」としてスキャンダル化し、教団への全面的な弾圧が始まったのです。
なお、貴族側の記録『皇帝紀抄』には、この事件を「念仏にかこつけた密通事件」として記されていますが、弾圧を正当化するための政治的な作為であったとされています。
六条河原における殉教の刻
建永2年(1207年)2月9日。
安楽房遵西は捕らえられ、二位法印尊長の沙汰により、斬首(死罪) という極刑を言い渡されました。
尋問の場において、安楽房は為政者や迫害する役人たちに対して、一切媚びることがありませんでした。
彼は善導大師の『法事讃(ほうじさん)』の一節を引き、権力者に向かって堂々と言い放ちました。
念仏を修行する者を見ては怒りを起こし、破壊しようと争い怨む。このような生まれつきの盲目の輩は、念仏の教えを毀滅する者であり、永遠に地獄などの三塗に沈むであろう
出典:善導大師『法事讃』
死を前にしてもなお、権力に一切頭を垂れることなく一向専念無量寿仏を叫びつづけたのです。
そして同日、彼は京都の六条河原にて『没礼讃(もつらいさん)』を唱え、念仏を口にしながら、堂々と斬首されました。その最期に残された辞世の詠は、次の一首です。
今はただ 云ふ言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには
意訳:今となっては、もはや語る言葉もない。ただ南無阿弥陀仏のお名前のほかには
死を目前にして、一切の世俗的な未練も弁明も捨て去り、ただ阿弥陀仏の御名にすべてを委ねる最期でした。
同日、住蓮房も近江国馬淵の畷(なわて)において斬首されています。処刑の前に住蓮房はこう言い遺されたといいます。
わたしのなきがらは、友だちの安楽と一緒に埋めてほしい。なむあみだぶつ
六条河原で首を斬られた安楽房もまた、
わたしのなきがらは、近江の国に運んで、住蓮と一緒に埋めてほしい。なむあみだぶつ
と言い残されたといいます。二人の遺言の通り、その遺体は馬淵の地に並んで葬られました。最期まで、二人は共に一向専念無量寿仏の教えを守り抜きました。
建永の法難と親鸞聖人の流罪
安楽房と住蓮房の処刑を皮切りに、弾圧はさらに広がっていきました。
同月2月28日には、教団のトップである法然上人(当時76歳)と、法然門下の中核的なお弟子であった親鸞聖人(当時35歳)らに対する流罪の宣旨が下されました。
この弾圧について、親鸞聖人は後に『歎異抄』後序の中でこのように記されています。
無実の風聞によりて罪科に処せらるる
出典:『歎異抄』後序(親鸞聖人著)
意訳:実態のない風聞によって罪人として処罰された
法難の不当さと深い悲しみが、この短い言葉からにじみ出ています。
この「建永の法難(承元の法難)」で処罰を受けた方々は以下の通りです。
| 氏名 | 処罰 | 流刑地・処刑地 |
|---|---|---|
| 法然聖人 | 遠流 | 土佐国(のち讃岐) |
| 親鸞聖人 | 遠流 | 越後国 |
| 浄聞房 | 遠流 | 備後国 |
| 澄西禅光房 | 遠流 | 伯耆国 |
| 好覚房 | 遠流 | 伊豆国 |
| 行空法本房 | 遠流 | 佐渡国 |
| 住蓮房 | 死罪 | 近江国馬淵 |
| 安楽房遵西 | 死罪 | 京都六条河原 |
死罪4名、遠流8名。
初期浄土教団にとって、壊滅的な打撃でした。
しかしこの弾圧こそが浄土教の全国展開を促す結果をもたらします。
京都に集中していた弟子たちが四国・北陸・東国・佐渡へと流罪となったことで、阿弥陀仏の本願が日本各地に種を播かれることになったのです。
安楽房の命を懸けた布教と殉教は、阿弥陀仏の本願の教えが全国に広まるための、決定的な転換点となりました。
編集後記
浄土宗最初の殉教者となった安楽房遵西は、自らの持てるすべての力を、阿弥陀仏の本願の布教に捧げました。
どのような迫害にも臆することなく「一向専念無量寿仏」を叫び続けるその情熱は、阿弥陀仏の本願のお力によって動かされたものと思わずにおれません。
阿弥陀仏の本願は大願業力であり、すべての人を必ず絶対の幸福にしてみせるという約束をしてくださっています。これからも浄土真宗親鸞会京都会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。
