今回は、本願寺三代目・覚如上人の「苦闘の生涯」について紹介します。
私たちが今、浄土真宗の教えを正確に聞くことができるのは、ひとえに覚如上人のご活躍があったからこそです。 親鸞聖人がお亡くなりになった後、教団の組織がなかったために、教えは各地でバラバラになり、いつ雲散霧消してもおかしくない状態でした。
その危機に立ち上がり、正しい親鸞聖人の教えを通して、一つにまとめ上げられたのが、聖人の曽孫である覚如上人です。
しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。 大谷廟堂をめぐる争い、門弟との葛藤、実子との義絶……。 数々の苦難に直面しながらも、親鸞聖人の教えを正しく後世へ残すため、命がけで戦い抜かれた82年の生涯を辿ります。
覚如上人の誕生
覚如上人は、文永七年(1270年)12月28日、京都三条富小路のあたりで誕生されました。
父は専証房覚恵。母は周防権守中原氏の娘でした。
父の覚恵は、親鸞聖人の末女である覚信尼のお子さんです。したがって、覚如上人は親鸞聖人の曽孫にあたります。
親鸞聖人がお亡くなりになってから8年後の誕生でしたので、直接お会いすることはありませんでした。しかし「親鸞聖人の直系」という血筋は、後に教団をまとめる上で大きな力となっていきます。
幼くして母との別れ
覚如上人が3歳のとき、大きな悲しみが訪れます。 文永九年(1272年)8月20日、母が亡くなられたのです。
幼くして母を失った覚如上人は、祖母である覚信尼のもとに引き取られ、大谷で育てられました。 母の温もりを知らずに育った寂しさは、いかばかりだったでしょうか。しかし母が身を持って教えてくれた無常の説法が、後の求道心へとつながっていきます。
この年、親鸞聖人の遺骨が大谷に移され、夫の禅念や関東のお弟子方の協力を得て廟堂が建てられました。これが後の本願寺の起源となる「大谷廟堂」です。幼い覚如上人は、この廟堂のそばで、祖母の背中を見ながら成長されたのです。
覚信尼が大谷廟堂の敷地を門弟に寄進
建治三年(1277年)、覚如上人8歳のときでした。
覚信尼は所有する敷地を聖人の御廟堂へ寄進し、大谷本廟は特定の個人の所有物ではなく、門弟の共有管理となりました。
寄進状をみると本廟の永続的な維持を確実にするための聡明な深慮がありました。
末代までも、御墓を全くせんために、寄進の状、件の如し
出典:覚信尼『寄進状』
意訳:後世に至るまで永遠に、親鸞聖人のお墓を完全に守り維持していくために、寄進の証文を以下の通り定める
親鸞聖人の恩徳を仰ぎ、その教えに触れ続けるための具体的な場を維持することが、聖人の教えを伝えるために当時は大変重要だったのです。
覚信尼は、のちに留守職と呼ばれる廟堂を守護する役目に当たり、また以後も彼女の子孫の中の適任者が、門弟の承認を得て就任すべきこととされました。
後世、大きな問題にならないよう、寄進状には次のような記載もあります。
もし、この御廟堂を預かって候わんずる尼の末々の者共も、この地を売りもし、質にも置きて候わん、ゆめゆめも用いられ候わで、この文を文証として、田舎の御同行たちの御計らいにて、押さえて、公家武家へ訴訟をいたして、御墓の地となさるべし、別の罪科にも行なわるべし
出典:覚信尼『寄進状』
意味:大谷本廟の留守をお預かりする覚信尼の子孫たちが、この本廟の地を売ったり質物とするようなことがあれば、御門弟たちで管理して決してそれを認めることなく、この寄進状を証として公儀へ訴えて親鸞聖人の御廟の土地としてください。子孫に重い罪を処してかまわない。
こうして覚信尼は、親鸞聖人の教えを護り続けるため、彼女は自身の血筋と門徒たちとの信頼関係を調整し、次代の体制を整えました。
この体制は、後に覚如上人が親鸞聖人の教えを正しく伝える組織の土台となっていくのです。
弘安六年(1283年)、覚如上人14歳のとき、祖母・覚信尼が死去されました。遺言によって、覚如上人の父・覚恵が留守職を継がれました。
覚信尼の遺志を引き継ぎ、覚如上人も覚恵の留守職の職を支えていくこととなります。
若い頃から熱心な勉学に励まれる
覚如上人は幼い頃から端正な顔立ちでも知られていましたが、それ以上に非常に聡明なことで有名でした。
5歳から学問に励まれ、13歳頃からは天台宗や法相宗、三論宗など、当時の仏教の最高学府で学ばれました。
- 天台宗:比叡山の宗澄
- 三論宗:東大寺の自性房了然
- 法相宗:興福寺の信昭・覚昭
そして弘安九年(1286年)10月20日、17歳のとき、孝恩院印寛のもとで出家し、広橋中納言兼仲の猶子となり、勘解由小路中納言法印と号し、諱を宗昭と称されたのです。
それから21歳の正応三年(1290年)3月まで、奈良で法相宗の修学に励まれました。
さらに徳治二年(1307年)の10月から12月にかけて、上人は樋口安養寺の阿日房彰空に師事しました。
この場所で浄土宗西山派の教えを受け、善導大師の『観経疏』や『大無量寿経』の解説、さらに『念仏鏡』などの講義を聴きました。
この時期に学んだ知識は、後に著書を記す際、西山派の文献(『鎮勧用心』など)をうまく引用し、親鸞聖人の教えを正確に多くの人に伝えるための土台となりました。
なぜ他宗派の学問を学ばれたのか
覚如上人は、浄土真宗の教えを伝えるだけでなく、「広学多聞」を非常に重んじられていたのです。
「広学多聞」とは、広く学び、多くを聞くこと。
その言葉通り、上人は他宗派の先達とも積極的に議論を交わし、諸家の学説を練磨する、飽くなき探究心を持った青年であったといわれています。
しかし、それは単なる知識欲ではありませんでした。
なぜ、そこまで他宗派を学ばれたのでしょうか。
それは、「親鸞聖人の教えの珠玉を磨くため」でした。
他宗派との同じところと違うところを明確にし、聖人の教えがいかに優れているかを証明するため。まさに「護法」という目的そのものだったのです。
この時の覚如上人の学問に対する姿勢について、弟子の乗専(じょうせん)は『最須敬重絵詞』の中で、次のように詳しく述べています。
一流の真宗を伝て、自身の出要を明らめ給ううえは、広学多聞もさのみはなににかはせんなれども、諸家の所談もゆかしく練磨は学者の飽かぬ事なればとて、便宜の聞法をばなお捨てられず、他門の先達にも少々談合し給けり、(中略)いずれの義を聞ても、かの教旨をもてあそばんとにはあらず。ただ所伝の珠玉を磨かんがためなり。あまたの宿才に対し給うも、他の相承を習えんにはあらず、ひとえにわが家の所伝に同異をわきまえんがためなり。されば彼を聞き此を聞くにつけても、いよいよ一流の味を添へ、義につけ、文につけても、ますます真実の師承を尊み給ける
出典:『最須敬重絵詞』
意訳:浄土真宗の教えを伝え、自身の往生を明らかにする上では、広い学問はそれほど必要ないかもしれない。しかし、学者は議論し研鑽することを好むものであり、機会があれば他宗派の教えも聞き、議論を交わされた。
しかしそれは、他宗派の教えを楽しむためではない。ただ、親鸞聖人から受け継いだ「珠玉」の教えを磨くためである。
多くの才能ある学者と対論するのも、その教えを習うためではなく、聖人の教えとの「違い」をはっきりさせるためである。
彼を知りこれを知るにつけても、ますます真宗の味わいは深まり、いよいよ親鸞聖人の教えを尊ばれるようになったのである。
広く学びながらも、決して染まらず、むしろ自宗の教えを輝かせる
覚如上人は、あえて教学界の公の場に自身が学ばれた浄土真宗の教義をさらし、他と比較検討させることで、浄土真宗の特徴と正当性を世に示そうとされました。
ここに、覚如上人の自由にして公明正大、そして鋭い批判精神に満ちた学風を偲ぶことができるのです。
この姿勢は存覚上人にも受け継がれ、存覚上人は他宗派への反論本を何冊も書き残すこととなります。
寺院での勢力関係に巻き込まれる
幼いころから勉学をしていましたが、その環境は必ずしも順風満帆とは言えませんでした。 思いがけない事件が起こります。
覚如上人は幼いころから才能と美貌で知られており、 それを聞いた三井園城寺南滝の浄珍が、覚如上人を手元に置きたいと画策します。浄珍は人を遣わし、天台宗の宗澄の房にいた覚如上人を誘拐して、無理やり自坊に連れてきたのです。
若くして寺院同士の勢力関係に巻き込まれました。
後に移動することができましたが、このような経験からもまた人間の不実さを知らされ、今こそ真実の仏教が必要であることを身を持って知らされることとなりました。
直弟子より親鸞聖人の教えを学ぶ
覚如上人は他宗派を学びながらも、親鸞聖人の教えを同時に本格的に深めていきます。
如信上人より直接伝授
18歳の時、親鸞聖人の孫にあたる如信上人が、報恩講のために奥州(東北)から上洛されました。
覚如上人はこの如信上人に師事し、親鸞聖人の教えの肝要を直接授かりました。
如信上人は、親鸞聖人のお孫さんにあたり、聖人から直接教えを受けられた直弟子です。20歳ころまで親鸞聖人のお膝元で聞法されていました。覚恵も如信上人に師事しました。その後、関東にくだり門弟たちからも厚く信頼されていた方でした。
覚信尼からの信任も厚く、弘安三年(1280年)覚信尼から一度、大谷廟堂の留守職の職を務めてもらえないかと如信上人に打診がありました。
しかし如信上人は関東ですでに多くの親鸞学徒へ仏法を伝えており、引き続き
伝えつづけたいという強い思いがありました。
そこでその実質的な職務を従弟覚恵に委ねて東国にくだり、常陸などを巡って奥州大網の地で布教を続けられました。
覚如上人にとって如信上人から親鸞聖人の教えを直接、伝授いただけたのは、大きな財産となりました。
「正統な教えとは何か」
今後の浄土真宗の未来を考える上でも重要な機会となりました。
唯円房から学ぶ
翌正応元年(1288年)19歳のときには、常陸河和田の唯円房が上京した際にも、覚如上人は唯円房について真宗の法門を学ばれました。
唯円房は『歎異抄』の編者といわれ、当時親鸞聖人門下の間でも一目置かれていた学匠です。
このように、覚如上人は若い頃から、親鸞聖人の直弟子たちから、真宗の教えを直接学ぶ機会に恵まれたのです。
大変尊敬されていましたので、上人は唯円房のことを「唯円大徳」と書き残され、浄土真宗の肝要の多くを学ばれたと言われています。
東国巡回での学び
さらに21歳の時、覚如上人は父・覚恵と共に関東へ出発します。 親鸞聖人が歩かれた地を巡り、直弟子の門弟たちと交流するためです。この旅で、覚如上人は親鸞聖人の教えがいかに広く人々の心に根付いているかを肌で感じられました。
坂東八箇国・奥州・羽州の遠境にいたるまで、処々の露地を巡見して、聖人の勧化のひろくおよびけることをも、いよいよ随喜し、面々の後弟に拾謁して、相承の宗致の誤なきむねなど、たがいに談話しける程に、はからざるに、両三年の星霜をぞ送ける
出典:『慕帰絵詞』
意訳:関東八ヶ国・奥州・出羽国の遠い地域に至るまで、各地の道を巡り歩いて、聖人(親鸞聖人)の教化が広く行き渡っていることをますます喜び、それぞれの地の弟子たちに会って、代々受け継がれてきた教えの趣旨に誤りがないことなどを、互いに語り合っているうちに、思いがけず二、三年の歳月を過ごしてしまった。
京都に戻ってからは、そこで得た知識と経験を、親鸞聖人の教えを学ぶ人々のために役立てました。 具体的には、著書を記したり、教えを説く場を設けたりして、学んだことを着実に人々に伝えていったのです。
『報恩講式』を著す
永仁二年(1294年)、覚如上人25歳のとき、『報恩講式』を記されました。
ちょうどこの年は、親鸞聖人の三十三回忌法要に当たり、親鸞聖人の御恩に報いる報恩講が盛大に行われました。
この日のために覚如上人は『報恩講式』を著され、親鸞聖人の法会「報恩講」における勤式を定め、その徳を讃嘆されたのです。
この時から毎年、親鸞聖人の御恩に報いる報恩講が営まれるようになったのです。。
『親鸞聖人伝絵』を作成
さらに翌年10月には、親鸞聖人の伝記絵巻「親鸞聖人伝絵」を作られました。
この絵巻で親鸞聖人がどんな生活をし、どんな教えを説かれたかを分かりやすく伝え、そのすぐれた功績を世の中に広めようと努力されたのです。
『拾遺古徳伝』を編録
覚如上人は「伝絵」を作られた6年後、正安三年(1301年)32歳のとき、法然上人の伝記『拾遺古徳伝』を編録されました。
法然上人と親鸞聖人の師弟関係を明確にされ、親鸞聖人が法然上人の教えを伝えておられることをわかるようにされました。
このように覚如上人は直弟子や、様々な人から教えを学び続けられました。
しかし学べば学ぶほど、大きな不安が募ってきます。
親鸞聖人の教えが正しく伝わらない現実
弘長二年(1262年)、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人がご入滅なされたあと、親鸞聖人の教えを伝える門弟は、決して一枚岩の組織ではありませんでした。
親鸞聖人の教えは、聖人が長年布教活動を行った関東地方(常陸、下総、下野など)に深く根を下ろしており、そこには聖人から直接教えを受けた「面授」の直弟子たちが率いる有力な地域教団がたくさん生まれていました。
| 地域 | 教団名 | 中心人物 | 特徴 |
| 下野国(栃木県) | 高田門徒 | 真仏・顕智 | 組織化が進み、強力な経済基盤を持つ。後の真宗高田派。 |
| 下総国(茨城県・千葉県) | 横曽根門徒 | 性信 | 親鸞聖人から厚い信頼を得ていた性信房を中心とする集団。 |
| 武蔵国(東京都・埼玉県) | 荒木門徒 | 源海 | 武蔵国荒木を拠点とする一派。 |
| 常陸国(茨城県) | 鹿島門徒 | 順信 | 鹿島神宮周辺を拠点とする門徒。 |
| 奥州(福島県・宮城県) | 大網門徒 | 如信上人 | 親鸞聖人の孫・如信上人が率いる。後の本願寺正統性の鍵となる。 |
しかしこの流れはどんどん細分化され、当時の状況を『慕帰絵詞』には、次のようにあります。
末寺の名をつり当流に号をかける花夷のあひた貴賤のたくひ、大底僻見に任して恣に放逸無慚の振舞を致し、邪法張行の謳歌に就て外聞実義しかるべからす
出典:『慕帰絵詞』
意訳:浄土真宗一門の末寺の名を騙ったり、浄土真宗の称号を掲げたりしている、都や田舎のあらゆる身分の者たちが、その多くは、偏った間違った見解(僻見)に身を任せ、勝手気ままに恥知らずで放蕩な振る舞いをし、 間違った教義(邪法)を広めることを謳歌している。 この状況は、世間体においても、仏法の真実の義においても、決してあってはならないことである。
親鸞聖人の教えが間違ってしまえば、多くの人を地獄に堕とすこととなります。
覚如上人は親鸞聖人の教えが間違って伝わらないように、正しい教えを伝えるための統一した組織の必要性を身をもって感じておられたのです。
その歩みを着実に進もうとされましたが、覚如上人の前には巨大な試練が立ちはだかります。
身内である唯善との「留守職」争いです。
覚如上人はどのような状況になっても、あきらめることはありませんでした。
次回は上人の試練「唯善との留守職を巡る争い」について書きます。
(続く)
編集後記
親鸞聖人の死後、その教えは各地でバラバラに伝えられ、間違った教えを説く者まで現れていました。
覚如上人は、この危機に立ち向かいます。
親鸞聖人の曽孫という血筋に頼らず、広く学び、直弟子から教えを受け、関東を巡り、そして組織作りへと進まれました。
どんな困難にも屈せず、今なすべきことを実行し続けられた方でした。
私たちも様々な困難がきてもあきらめることなく、覚如上人が守り抜かれた親鸞聖人の教えを、浄土真宗親鸞会京都会館で聞かせていただきましょう。

