今回は、覚如上人が留守職をどのように守られたのか、紹介します。
以下の記事の続きになります。

唯善について
唯善は、父は禅念、母は覚信尼であり、覚如上人の父・覚恵にとって異父弟にあたります。
唯善は大納言雅忠の養子となり、当初は京都仁和寺で密教を学び、修験道も修めていました。「大納言弘雅阿闍梨」の字を称していましたが、その後、常陸国河和田(現・茨城県水戸市)に住していた唯円房のもとで浄土真宗を聞くようになります。
覚信尼を支え、門弟たちとの間を調整し、覚信尼の子孫が留守職を代々受け継ぐことを決定させました。
しかし関東で困窮の生活をしていたため、不憫に思った覚恵は唯善を呼び寄せ、大谷に同居させました。正安元年(1299年)、覚如上人30歳の頃です。
このころ覚如上人と唯善との間に、「宿善」について論争が起きました。
宿善とは、私達が、後生の一大事を解決する上で、なくてはならぬものです。
蓮如上人の御文章には、「宿善まかせ」、「すでに宿善に限れり」と宿善の大切さが多々述べられています。
その宿善について、求めねばならぬものか、求めなくてもよいものか、この点で争われました。
信心往生と無宿善往生の論争
このことは、『慕帰絵詞』巻五及び『最須敬重絵詞』巻五、十八段に出ています。
ある時、覚如上人は、「宿善開発の人が善知識にあい、阿弥陀仏の本願を聞信して助かるのである」と仰せられました。 その時、唯善は、次のように申し立てたのです。
唯善:十方衆生と阿弥陀仏が本願に約束されている。十方衆生の中に、過去世においても今生においても、善を修めたことのない者もいる。もし宿善がなければ助からないというならば、全く善を修めたことのない悪人は、本願よりもれることになる。
つまり、無宿善の者でも助かると主張したのでした。
そこで覚如上人は、重ねて教え示されました。
もし宿善がなくても助かるならば、十方衆生は一度にすべて救われるはずであるのに、助かるのに前後がでてくるのは宿善の厚い人と薄い人との違いによるのだ。
そして、その根拠として、『大無量寿経』(巻下)の以下の御文をあげられています。
若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲得此法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法
又、善導大師の釈文も引用されて、「宿善の有る者でなければ、阿弥陀仏の本願を聞くことはできない」と、力説されたのです。
それに対し唯善は、「それでは信心往生とはいえない、宿善往生になってしまうではないか」と反論しました。
その時、覚如上人、次のようにおっしゃられました。
宿善の当体をもて往生すという事は始より申さねば、宿善往生とかけりおおせらるるにおよばず。往生の因とは宿世の善もならず今生の善もならず。教法にあうことは宿善にこたへ、往生をうくることは本願の力による
意訳:宿善によって往生するというのならば宿善往生にもなるが、宿善は往生の因ではない。本願力によって頂いた信心で往生できるのだから宿善往生ではない
と言い切られております。
以上の史料から、覚如上人は宿善を強調しつつも往生因は信心であると説き、唯善は「本願は一切衆生を選ばない」として無宿善往生を唱えたことがわかります。
教義的な理解の違いも、後に留守職になれるかなれないかの判断に大きく影響しました。
唯善との訴訟対決
さらに唯善は教義上の論争だけにとどまらず、覚恵から大谷廟堂の権利を奪い取ろうと企てていきます。
唯善は、自分は父・禅念から大谷の土地を譲り受けていると称して訴訟を起こしました。
正安三年(1301年)に唯善が文書を偽造し、大谷の地は父・禅念から自分に譲られた「私領」であると主張して、朝廷から安堵の院宣(公的な証明書)を騙し取っていました。
この「大谷本廟の横領工作」に対し、覚如上人は法的に対抗し、教団の基盤を守り抜きます。
訴訟の途中、病気に伏していた覚恵の代理として、この陰謀を阻むための訴訟費用等の協力を得るために、下総や鹿島などの関東へ下向しました。
そして証拠も集め訴訟に挑み続けます。
正安四年(1302年)、覚信尼の寄進状や遺言、覚如上人らの陳弁が裁判で認められました。
「大谷本廟は門徒の共有物である」ことを証明する後宇多院の院宣によって、廟堂敷地は門弟の共有であることが確認され、唯善は法的に敗北します。
同年、父・覚恵が重病となったため、覚如上人が廟堂の管理者である留守職を継ぐための譲状を父から受け取っていますが、まだ正式には留守職ではありませんでした。
唯善によって大谷廟堂の鍵を奪われる
しかし、唯善は廟堂横領の企てを断念しませんでした。法的に勝てなければ実力行使に踏み出します。
徳治元年(1306年)、覚恵が重病で寝ているとき、唯善は廟堂の鍵を奪い取ったのです。
覚如上人37歳のときでした。
そのため覚恵は覚如上人を連れて大谷を出て、二条朱雀の衣服寺付近に移動しました。
覚如上人の母、播磨局の父、教仏の家に移り住むこととなったのです。そこで覚恵は後のことを覚如上人に託し、翌年四月に亡くなりました。
覚如上人は何とかして大谷に帰ろうとされましたが、廟堂には唯善が比叡山衆徒を導入して占拠していたため、入ることができませんでした。
覚如上人は一人、勉学の傍ら、大谷御廟を守りぬく戦いを続けられていくのでした。
唯善による大谷廟堂の破壊
武力を持たない覚如上人は、天台宗の門跡寺院である青蓮院に訴え出ました。 そして延慶二年(1309年)、ようやく覚如上人の正統性が認められ、唯善を退去させることができました。
ところが、立ち去り際に唯善は恐ろしい暴挙に出ます。
大谷廟堂を破壊し、親鸞聖人の御影像(木像)とご遺骨の一部を奪って逃走したのです。
覚如上人が大谷に戻った時、そこにあったのは瓦礫の山でした。
すべてを失った廃墟。絶望してもおかしくない状況です。
しかし、覚如上人は諦めませんでした。
「親鸞聖人の恩徳を仰ぎみる大谷廟堂を失えば、教えも滅びてしまう」
その一心で、すぐさま復興に着手されます。東国の門弟たちに頭を下げ、支援を仰ぎ、翌年にはなんとか堂舎を再興されたのです。
覚如上人は絶望に立ち止まらず、常に未来を変えるための現実的な選択をし続けられました。
「十二箇条懇望状」の執筆
廟堂は再建しましたが、まだ問題は解決していませんでした。
当時の大谷廟堂は、関東の有力門弟たちの寄進によって成り立っており、彼らは「廟堂は門弟全員の共有物であり、留守職はただの管理人だ」と考えていました。
覚如上人が強いリーダーシップを発揮しようとすることに、門弟たちは警戒感を抱き、留守職就任を拒否したのです。
そこで覚如上人は、門弟たちに「十二箇条懇望状」という誓約書を提出されます。
たとえば次のような誓約内容でした。
御門弟の御中より、たとい御留守職に申しつけらるといへども、御門弟の御意にそむくにおいては、一日片時たりといへども、影堂敷内を追い出さるるの時、一言の子細をも申すべからざる事
影堂の留守職に申しつけらるといへども、全く我が領の思いをなすべからざる事
「門弟の意向に背いたら即刻出て行きます」「廟堂を自分の私物とは思いません」という、非常に制限的な誓約でした。
なぜ、そこまでして留守職になろうとされたのでしょうか。
権力が欲しかったからではありません。
「私が留守職にならなければ、後世の人々のために親鸞聖人の教えを守り続けられない」
その強い責任感から、自身のプライドを捨ててでも、門弟たちの承認を取り付けられたのです。
留守職に就任
延慶三年(1310年)秋、留守職相承に関する書類一切と再度懇望状を書き、関東を何度も訪れました。
覚如上人は、もしここで自分の希望が容れられなかったならば、別に一寺を建立して、そこに住もうという決意を抱きつつ、最後のつもりで説得を重ねました。
覚如上人の誠実でかつ強い思いが伝わり、ようやく門弟たちとの了解を取り付けたのです。
半年間の滞在を経て、安積や鹿島の門徒に認められ、秋に帰洛して正式に第三代留守職に就任しました。
覚如上人41歳のときでした。
ここからさらに本願寺という法城を築く戦いが続いていくこととなります。
編集後記
「門弟の意向に背いたら即刻出て行きます」
「廟堂を自分の私物とは思いません」
覚如上人が、ここまで自身を律する誓約を立ててまで留守職に就かれたのは、権力欲ではなく「親鸞聖人の教えを後世に伝える」という使命感からでした。
実際に門弟から寺院から追い出されるような振る舞いはなく、生涯を親鸞聖人の教えを正確に将来に残すことに全力を尽くされています。
今、親鸞聖人の教えを正しく聞かせていただけるのは、善知識方々の血の滲むような努力のおかげです。
私たちはそのことを感謝し、浄土真宗親鸞会京都会館で、阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

