今回は、覚如上人と長男・存覚上人との関係について紹介いたします。
親鸞聖人のご遺徳を守り、本願寺という法城を築かれた覚如上人。
その生涯で最も悲劇的な出来事が、「学才、父に勝るとも劣らない」と言われた天才の息子を、二度も義絶(勘当)されたことでした。
なぜ覚如上人は、愛する我が子を勘当せねばならなかったのでしょうか。

内室の死去と北陸布教—父子で歩んだ日々
覚如上人ははじめ播磨局を内室とされ、存覚上人・従覚上人の二子をもうけられました。
ところが応長元年(1311年)、播磨局が死去されます。覚如上人42歳のことでした。
覚如上人の勉学や唯善との争いを支え続けられた奥様を亡くされ、大変悲しまれたことでしょう。
しかし覚如上人は歩みを止められませんでした。悲しみを乗り越えて、息子・存覚上人と共に越前大町の「如道」を訪ね、親鸞聖人の主著『教行信証』の概要を伝授されたのです。
留守職になられた覚如上人は、次の布教戦線を北陸にも見出そうとされていました。
その時22歳の存覚上人が『教行信証』を講談しています。存覚上人もまた才覚を表してきて、覚如上人のご布教を支えていました。
父と子は、親鸞聖人の教えを伝えるという同じ志のもと、共に歩んでおられたのです。
北陸の如道については以下の記事をお読みください。
「本願寺」という法城を築く
覚如上人が大谷廟堂の留守職就任を認められたとき、まだ覚如上人が住持する「寺」はありませんでした。
廟堂は、親鸞聖人の墓所として門弟たちが建てたものに過ぎなかったのです。
覚如上人は、この廟堂を寺院化し、浄土真宗を正しく伝える本拠地を用意することを急がれました。
そこでまず正和元年(1312年)、43歳のころ存覚上人や関東の門弟と協力して、廟堂に「専修寺」という額を掲げられました。
ところが、比叡山衆徒から抗議を受けました。
「親鸞は専修念仏の咎によって流罪に処せられた。それ以来、専修という言葉は使用を禁止されている。したがって、専修の寺号を用いるのはよろしくない」
覚如上人は仕方なく専修寺の額を撤去されました。
しかし覚如上人の歩みは止まりませんでした。元亨元年(1321年)、覚如上人52歳のころには「本願寺」という寺号を公称し、大谷御廟を寺院化することに進み続けられます。
本尊安置をめぐる対立
寺院化の歩みは止まらず、常に組織改革をおこなっていかれました。
もともと廟堂には、その中央に親鸞聖人の墓を据え、壇上に親鸞聖人の木像を安置していました。
それが本願寺と称し、寺院化を表明すると、そこに御本尊のご安置が必要となります。
そこで覚如上人は、親鸞聖人の木像を横に移し、御本尊をご安置されようとされました。
ところが、廟堂は親鸞聖人の墓所として建てたものであると、寺院化について門弟たちは強い反対の意向を表明しました。
覚如上人の御本尊安置の計画は、高田派の定専等の門弟によって阻止されてしまったのです。
これはカリスマ性の高い覚如上人に権力が集中することを危惧したためと考えられています。
門弟にとっては自分たちこそ親鸞聖人の教えを正しく伝えている浄土真宗本流の自負があります。簡単には覚如上人に合流することはできませんでした。
御本尊安置が実現するのは、覚如上人の次代・善如上人の時代に至ってからでした。
高田門徒の支え
高田門徒が寺院化を反対していたとはいえ、大谷廟堂の運営は多く高田門徒のおかげで支えられていました。
延慶二年(1309年)の唯善による廟堂破壊後の復旧に尽力した一人が高田門徒の顕智であり、さらに建武三年(1336年)に廟堂が兵火に焼けたときも高田の定専の力で復興したのです。
廟堂の維持費や留守職の生活費などは、高田門徒をはじめ東国門弟たちから送られる金品に頼らざるをえないほど、当時の本願寺は困窮していました。
『存覚一期記』正和三年(1314年)の条には、「この年は上京して大谷に参詣する人もなく、覚如上人は越年の費用に困っておられたところ、奥州浅香の法智が五百疋の灯明料を持ってきたので、何とか年を越すことができた」と記されています。
これは当時、比叡山が近くにあることもあり、親鸞聖人の教えの布教がいかに困難であったかを物語っています。
留守職を存覚上人に譲られる
そんなある日、覚如上人は大きな決断をされます。
正和三年(1314年)冬、45歳の覚如上人は、大谷廟堂の留守職(責任者)を存覚上人に譲り、一条大宮の窪寺のあたりに移居されたのです。
覚如上人にこのような決意をさせたのは、ご自身の体調が悪くあられたことと、関東の門弟たちによる覚如上人への風当たりが強かったからではないかと考えられています。
そこで存覚上人への移譲を決意し、存覚上人を説得して管領権を譲り、大谷本願寺を退去されました。
存覚上人は多くの門弟と信頼関係を築いていましたので、存覚上人のもとで寺院化する計画を練られていたのです。
したがって、これ以後、元亨二年(1322年)に第一回目の義絶により大谷を出るまでの八年間は、存覚上人が留守職の任についていたのです。
『閑窓集』の編集
また覚如上人は和歌にも堪能で、『慕帰絵詞』にも多く収載されていますが、正和四年(1315年)に自作歌集『閑窓集』を編集されたといいます。
覚如上人はこのような和歌を通じて、公家の人とも多くの人とコミュニケーションをとっておられました。またそのような覚如上人は大変魅力的であり、乗専などの有力なお弟子たちが集まってきました。
このように、これから本願寺が存覚上人のもとで、さらに発展するかと思われました。
しかし、徐々に雲行きが変わってきます。
仏光寺了源との出会い
元応二年(1320年)、覚如上人が51歳のとき、本願寺の存覚上人のところに佛光寺派の了源が来て、親鸞聖人の教えの指導を願いました。
そこで存覚上人は一条大宮に住む覚如上人のもとに、了源を連れて行きました。
覚如上人は了源と対面し、指導は存覚上人がするよう命じられました。
以来、了源はしばしば存覚上人を訪ねて教えを受け、存覚上人は了源のために『諸神本懐集』等を著して与えました。
覚如上人に面謁の年、了源は山科に寺を建て、覚如上人の命名によって興正寺と称しました。
日々は静かに流れていきました。
しかし、いつまでも平穏ばかりが続くわけではありませんでした。
存覚上人義絶という苦渋の決断
覚如上人の生涯で最も悲劇的なのは、長男・存覚上人との対立でしょう。
存覚上人は非常に能力が高く、素晴らしい書物を多く残しています。そして一時的には留守職の地位も与えられました。
しかし、覚如上人はこの愛する息子を、生涯に二度も「義絶(勘当)」されなければなりませんでした。
口論と義絶
存覚上人の日記には、次のように記されています。
この両年、口舌のことあいつづき、ついに御勘気にあずかる
出典:『存覚一期記』
意訳:この二年間、父・覚如上人との口論が続いていました。そしてついに、父から勘当を言い渡されてしまったのです。
元亨年間に入って、父子の口論が続いたといいます。
ついに元亨二年(1322年)、覚如上人53歳のとき、存覚上人を義絶して大谷から追放されたのです。
ただこの義絶は善鸞の場合とは異なり、その明確な理由は明らかになっておらず、様々な説が存在しています。
そこで覚如上人は、再び留守職として復帰されました。
一方、存覚上人は東国に下って、門弟たちに事情を説明したようです。
存覚上人はこれ以降、関東の門徒や仏光寺派の門徒などの土地や、まだ浄土真宗の伝わっていない西日本で布教を続け、親鸞聖人の教えを自分の立場でできる範囲で伝え続けます。
門弟による和解の推進と復権運動
翌元亨三年(1323年)、門弟の代表が関東や東海から上京し、義絶を解除して存覚上人復権のための署名運動を始めました。44人が賛同しました。
こうした門弟の復権運動に対して、覚如上人は元亨四年(1324年)四月、妙香院の下知状を得て、門弟は留守職の任命に介入できないとし、次のように述べられました。
光玄律師(存覚)、条々不義により、義絶のよし聞しめされ候処、門弟等の間、彼の律師に品肩の輩ありと云々。義絶の身をもって、いかでか留守職を競望せしむべけんや
意訳:光玄律師(存覚上人のこと)は、数々の道に外れた行い(不義)があったため、義絶すると言い渡した。ところが、門弟たちの中には、あろうことか存覚に味方する人がいるとのこと。親から勘当された身分でありながら、どうして本願寺の留守職になれるだろうか?(なれるわけがない)
門徒の願いは届かず、存覚上人の復権は決して認められませんでした。
また元亨四年(1324年)、覚如上人は本所妙香院の下知状を得て、「門弟は廟堂の敷地については支配権があるが、留守職の相続には介入できない」と主張されました。
この覚如上人の主張に対し、門弟は青蓮院に訴え、廟堂およびその敷地は門弟の共有であることを明らかにし、留守職の権限についても覚如上人の理解に反対したのです。
覚如上人は、存覚上人の復権を要求する門弟たちとの間に、留守職の任免権や廟堂敷地の支配権をめぐって、このあとも何回となくやりとりを繰り返されました。
なぜ義絶されたのか
門弟から慕われる存覚上人を、なぜ義絶されなければならなかったのでしょうか。
一般には、中央集権を目指す覚如上人と、地方分権的な存覚上人との教団の方針を巡っての争いなどが原因と言われます。
しかし根本には、「親鸞聖人の教えを純粋に守り抜く」という覚如上人の妥協なき姿勢があったと思われます。
親鸞聖人の教えの純粋性とは?
では、覚如上人が守ろうとされた「親鸞聖人の教えの純粋性」とは、どのようなものだったのでしょうか。
それを理解するために、まず現代における一つの事例を見てみましょう。
かつて浄土真宗東本願寺派の法主が、「釈迦以来の法統」を伝えた僧侶や同寺歴代上人らのご恩徳を讃嘆する会にて、こう語ったといいます。
フランスのルルドの泉を訪問した。この泉は、聖母マリアからお告げを受けた少女が発見し、病気治しの効果があると、年間数百万人の信者が訪れる。
皆さん深い信仰に基づいている。真剣に神さまを信じ、恩寵を頂けるという人が毎日何千人もやってくる。私は純粋無垢に信ずる人に出会い居心地の良さを感じた。出典:中外日報(平成21年6月4日)「親鸞聖人750年御遠忌を勝縁に」
法主は「浄土真宗」を標榜する教団リーダーです。キリスト教は仏教では外道にあたります。
ご恩徳を讃嘆する会の中で、外道の信仰に触れて「居心地が良かった」といわれるのです。
このような状況で、本当に親鸞聖人の教えは正しく伝わるのでしょうか。
いったい「釈迦以来の法統」とは何でしょうか。
親鸞聖人が『教行信証』に次のように涅槃経から引用されています。
一切外学の九十五種は、皆悪道に趣く
出典:『教行信証』
「一切外学の九十五種」は仏教以外のすべての宗教です。これを外道といわれます。
そのような仏教以外のすべての宗教を信じていると、「皆悪道に趣く」と教えられています。
「悪道」とは、苦しみの世界のことです。
つまり真理に外れた教えを信じていると、今生も未来も永遠に苦しまなければならないという意味です。
そして親鸞聖人は仏教の結論として、
一向専念無量寿仏
出典:『大無量寿経』
と断言されています。
これは、「阿弥陀仏に一向専念せよ」と読み、意味は、「阿弥陀仏以外の仏も菩薩も神も捨てて、弥陀一仏に向け、弥陀だけを信じなさい」ということです。
私たちを本当に救ってくださるのは、本師本仏の阿弥陀仏しかおられないから、こう仰せなのです。
わが祖師・親鸞聖人は、この釈尊の至上命令に従い、次のように仰っています。
一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり
出典:『御伝鈔』
意訳:我々が未来永劫、浮かぶか、沈むか、の一大事は、釈迦の『一向専念無量寿仏』の教えに、順うか、否かで、決するのである
この「『釈迦以来の法統』を伝えられた方々のご恩徳を讃嘆する会」で、どうして「キリスト教の讃嘆」が平気でなされるのか。
その布教の激しさは、神を信仰している時の権力者の逆鱗に触れ、死罪が辛くも流罪、越後に遠流となられた程でした。これは「承元の法難」として、親鸞学徒ならば決して忘れることのできない聖人のご苦労です。
この「一向専念無量寿仏」の真実こそ、「釈迦以来の法統」なのです。
この「「『釈迦以来の法統』を伝えられた方々のご恩徳を讃嘆する会」で、どうして「キリスト教の讃嘆」が平気でなされるのか。
「宗教ならば、なんでもかんでも信じればよい」のではありません。
「何を」信ずるか、の吟味こそ、まず初めにしなければならないことでしょう。
だからこそ親鸞聖人は『正信偈』を著され、「正しい信心を獲よ」と教え勧められたのです。
「正しいという字は一に止まると書くように、正しい信心は、たった一つしかないのだよ」と、懇切に明らかにされたのが『正信偈』なのです。
そして、その「たった一つの正しい信心」こそが、「一向専念無量寿仏」の信心であることを、釈迦の教えに順って叫び続けられたのが、親鸞聖人のご一生であったのです。
最も厳格に、正しく親鸞聖人の教えを伝える方こそ、真の善知識です。
存覚上人は、布教のために世間に流布する神道や浄土他宗派にも柔軟な姿勢を見せていました。
しかし妥協なく親鸞聖人の教えを守られる覚如上人には、それが「親鸞聖人の教えを濁らせるもの」と判断せざるをえなかったのかもしれません。
「たとえ我が子であっても、教えを曲げることは少しも許されない」
その厳しさは、私利私欲ではなく、法の純粋性を守るための、身を切るような苦渋の決断でした。
晩年、二人は和解しますが、別々に暮らすことになった際の覚如上人の涙は、父としての深い愛情を物語っています。
また存覚上人は義絶されたとしても、晩年まで経済的にも覚如上人を支え続け、存覚上人の活躍は、蓮如上人が布教の参考にされるほど重要なものでありました。
編集後記
覚如上人の生涯で最も心を痛められたのは、この存覚上人との対立だったのではないでしょうか。
天才であり誰からも好かれる息子。共に親鸞聖人の教えを伝えてきた我が子を、義絶せねばならなかった覚如上人の苦しみは、いかばかりだったでしょう。
しかし覚如上人は、父としての情よりも、「親鸞聖人の教えを純粋に守り抜く」ことを選ばれました。覚如上人がいなければ霧散したかもしれない親鸞聖人の教えが、今日まで続く素地となっていったのです。
私たちが今、親鸞聖人の教えを聞かせていただけるのは、覚如上人などの善知識方が、どんな困難にも屈せず、正確に阿弥陀仏の本願を伝え続けてくださったおかげです。
私たちはそのご苦労を決して忘れず、浄土真宗親鸞会京都会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。

