木辺派錦織寺は、浄土真宗の歴史において、滋賀県の布教において重要な役割を果たしてきました。
親鸞聖人の教えがどのようにこの地に伝わり、錦織寺と存覚上人との深い関わりを中心に、その歴史をたどっていきます。
真宗十派とは
木辺派は「真宗十派」の一つに数えられています。では、真宗十派とは何でしょうか。
現在、浄土真宗には16の宗派がありますが、一般的に「真宗十派」と呼ばれるのは、1967年(昭和42年)に発足した真宗教団連合に所属する10の宗派を指します。
この十派の内訳は次のとおりです。
- 覚如上人、蓮如上人の系統:東本願寺派と西本願寺派の2派
- 親鸞聖人の直弟子の系統:8派
合わせて10の宗派となります。
そのうちの一つが木辺派で、その本山が錦織寺(きんしょくじ)です。
錦織寺の周辺に集まった親鸞聖人の門弟たちは、当時「木辺門徒」と呼ばれていました。
木辺門徒の形成
錦織寺は、近江国木辺の地域で、門徒たちが求道し聞法する中心地となりました。
近江国木辺の地域は、現在の滋賀県野洲市木部町周辺となります。
親鸞聖人の教えは、どのようにしてこの地に伝わったのでしょうか。
関東の下総横曾根にいた性信坊から、善性、願明、愚咄、慈空へと教えが受け継がれ、やがて近江の木辺に親鸞聖人の教えが根付いていったと考えられています。
では、錦織寺はどのようにして、この地域の中心的な寺院となったのでしょうか。
錦織寺の由縁
錦織寺は滋賀県にある寺院で、その歴史は858年にまで遡ります。もともとは天台宗の寺院として創建されました。
第3代天台座主・円仁の指示により、近江国木辺の地に「天安堂」という御堂が建てられ、伝教大師最澄が刻んだとされる毘沙門天立像が安置されました。これが錦織寺の始まりです。
錦織寺が真宗の拠点として重要な転機を迎えたのは、寺の記録によれば嘉禎元年(1235年)のことでした。
親鸞聖人が関東から京都へ帰られる途中、この天安堂に立ち寄られたと伝えられています。
そのときのエピソードをご紹介しましょう
親鸞聖人と錦織寺のエピソード
親鸞聖人が63歳の頃のことです。関東から京都へ帰られる途中、美濃を通って近江国へ入られました。
野洲郡木部の里に着いたとき、日が暮れてしまいます。
一行は錦織寺の天安堂を訪れ、一夜の宿をお願いしました。
ところが、寺の者は「ここは比叡山延暦寺の別院です。宿泊施設ではありませんので、お泊めすることはできません」と断ってしまいました。
しかし親鸞聖人はお弟子たちに、
「何も気にすることはない、この世はどこもかりそめの旅宿ではないか」とおっしゃって、堂の縁によりかかり、そのまま夜を明かされたのです。
不思議な夢告
するとその夜、不思議なことが起こりました。
寺の僧侶、木辺村の長である石鼻左衛門大輔友連(いしばなさえもんたゆうともつら)とその息子・友貞が、一夜のうちに全員同じ夢を見たのです。
夢の中では、天安堂の本尊である毘沙門天が現れて、こう告げました。
「私は天帝の命を受けて、人間世界の仏法を守護する者である。今、仏法を広める高僧がこの地を訪れ、私の堂に宿っておられる。すみやかに帰依し、その尊い教えに触れなさい」
同じ夜、親鸞聖人の夢にも毘沙門天が現れ、こう語りかけました。
「私は長い間、あなたのような師を待ち望んでいました。どうか本尊を阿弥陀仏に変え、この地に阿弥陀仏の本願を広めてください。私は別の場所に移り、あなたの教えを守護いたしましょう」
親鸞聖人への帰依
翌朝、住職と左衛門父子は驚きと畏敬の念をもって、この夢のことを親鸞聖人に伝えました。そして全員が親鸞聖人に帰依したのです。
親鸞聖人は数カ月間、天安堂に留まられました。あるときは田んぼのあぜ道に立って説法し、あるときは小川のほとりに座って村人たちと語り合い、田植えの際には念仏田植唄を用いて、わかりやすく教えを伝えられました。
なお、このエピソードは史実としては確認されていませんが、親鸞聖人の教えは天地の神々さえも敬い従うほど尊いものであることを伝える物語として、大切に語り継がれています。
存覚上人との関係
錦織寺の開基については、さまざまな説があります。
有力な説によれば、関東の横曾根門徒の流れをくむ願明坊には二人の息子がいました。長男の愚咄は瓜生津に弘誓寺を開き、次男の慈空坊が錦織寺を継いだとされています。
愚咄は覚如上人の弟子となり、覚如上人の長男である存覚上人と深く交流を持つようになりました。
存覚上人については、以下をお読みください。

慈空房が存覚上人に教えを請う
一方、当時錦織寺の住職だった慈空房は、存覚上人に親鸞聖人の教えを学びたいと願い出ました。
『存覚上人一期記』には、次のように記されています。
錦織寺慈空房、当宗において学問の懇志あるのよし、示せしむるの間、安養寺を挙し遣はす。彼の引導のため円福寺に寄宿す
出典:『存覚上人一期記』
意訳:錦織寺の慈空房が、我々の宗門(本願寺派)の学問を深く学びたいと熱心な志を持っているということで、私(存覚上人)がかつて学んでいた京都の安養寺を推薦し、彼をそこへ行かせた。そして私自身も、慈空房を指導するために、近くの円福寺に寄宿することにした。
当時、存覚上人は父・覚如上人から義絶されており、本願寺を使用することができませんでした。そのため、各地を転々としながら親鸞聖人の教えを伝えておられたのです。
こうして錦織寺の慈空房が存覚上人に師事したことで、親鸞聖人の教えが正しく木辺門徒に伝わるようになりました。
存覚上人の息子・綱厳が錦織寺を継ぐ
存覚上人の義絶が解かれた翌年、慈空坊は亡くなり、覚如上人も往生されました。
愚咄と慈空坊の妻・澄禅尼は、存覚上人に錦織寺の跡を継いでほしいと打診しました。慈空坊も存覚上人が跡を継ぐように遺言していたといいます。
本願寺の跡を継がない存覚上人の身を案じるとともに、存覚上人への大きな信頼からでした。
しかし存覚上人は年齢を理由にこれを辞退し、代わりに自分の息子である綱厳を推薦しました。
綱厳は錦織寺に入ると、「慈観」と名を改めました。
存覚上人は錦織寺と慈観のために、親鸞聖人の生涯や教えについて詳しく伝授しました。また、『教行信証』の最初の注釈書である『六要鈔』を写させ、自ら校正して与えました。
その後、錦織寺は存覚上人の子孫が慈観、慈達、慈賢と代々跡を継いでいきました。次第に本願寺との関わりは薄れていき、存覚上人の法語を中心に学ぶ流れとなっていったのです。
しかし時代が下り、蓮如上人の時代になると、木辺門徒の多くが蓮如上人から直接、親鸞聖人の教えを聞かせていただくようになります。
(つづく)
編集後記
錦織寺と存覚上人の関わりを通じて、親鸞聖人の教えがどのように地方に根付いていったのかをご紹介しました。
蓮如上人も大変尊敬されている存覚上人は、京都や大阪だけではなく、滋賀も巡りながら真摯に教えを伝え続けられました。
そのおかげで、錦織寺や木辺門徒にも法灯が伝わります。
親鸞聖人の教えを受け入れる土壌ができた土地に、後に蓮如上人が親鸞聖人の教えを広められています。
存覚上人や蓮如上人のご尽力によって今に伝わる親鸞聖人の教え・阿弥陀仏の本願について、これからも浄土真宗親鸞会京都会館で真剣に聞かせていただきましょう。

