【覚如上人の生涯④】覚如上人の晩年と三代伝持の血脈

今回は、親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人の晩年の活躍と、「三代伝持の血脈」(法然上人→親鸞聖人→如信上人→覚如上人という正統な継承の系譜)について紹介します。

親鸞聖人が90歳で往生された後、その教えは各地に広まりましたが、同時に誤った解釈も生まれていました。そんな混乱の中で、「親鸞聖人の教えを正しく後世に伝えなければならない」という強い思い一つが、覚如上人の生涯を貫きました。

この記事では、覚如上人が親鸞聖人の教えを守るために生涯をかけて取り組まれた活動と、その中心となった「三代伝持の血脈」の意義について、詳しくご紹介していきます。

目次

覚如上人とはどのような方だったのか

覚如上人は、親鸞聖人の往生から8年後、文永7年(1270年)12月28日に、親鸞聖人の末娘・覚信尼の孫として誕生されました。

観応2年(1351年)に82歳で往生されるまでの生涯、特に60歳以降の晩年は、まさに「親鸞聖人の教えを守る」ための戦いの連続だったといえるでしょう。

覚如上人は考えられました。

「本願寺こそが、法然上人から親鸞聖人へと正しく伝わった阿弥陀仏の本願の真意を伝える場所である、ということを、多くの人々にわかりやすく示さなければならない」

では、どのようにしたら、それを明示できるのでしょうか。

そこで覚如上人が取られた方法が、大谷廟堂を「本願寺」という正式な寺院へと展開し、そのもとに諸国の門徒を統摂し、浄土真宗の興隆を図ることでした。

さらにご著書の中で、その理論的な根拠を明示しなければなりませんでした。

三代伝持の血脈とは何か

「なぜ本願寺が、高田門徒や佛光寺派ではなく、親鸞聖人の教えを正しく伝える中心となるべきなのか?」

この問いに答えるために覚如上人が教えらえたのが「三代伝持の血脈」でした。

「三代伝持の血脈」とは、簡潔に言えば、阿弥陀仏の本願の教えが、以下のように一点の曇りもなく継承されたとする系譜のことです。

①法然上人(黒谷)

  ↓ 浄土の教えを継承・『選択集』の付属

②親鸞聖人(本願寺)

  ↓ 面授口訣で奥義を伝授

③如信上人(大綱)

  ↓ 面授口訣で教えを継承

覚如上人

『改邪鈔』の奥書で、覚如上人は次のように述べられています。

余壮年之往日、奉従受三代黒谷・本願寺・大綱伝持之血脈以降、鎖所蓋二纂興説之目定一也。

出典:『改邪鈔』

意訳: 私は若い頃、三代の黒谷(法然上人)本願寺(親鸞聖人)大綱(如信上人)の伝持の血脈を受け継いで以来、親鸞聖人の教えを興隆させることを目的としてきました。

ここで「血脈」とは、宗祖親鸞聖人の教えと血統の両方を正しく継承していることを意味します。

覚如上人は、自らがこの三代伝持の血脈を継ぐ者として、権威ある宣言をなされたのです。

『口伝鈔』にも「本願寺の聖人、黒谷の先哲より御相承候て、如信上人仰せられていわく」と述べられています。

これもまさしく法然上人・親鸞聖人・如信上人の三代伝持を示されたものです。

なぜ如信上人が二代目に?

如信上人は、善鸞の息子です。善鸞は親鸞聖人から義絶されたので、「異端者の息子を2代目に据えていいのか」という批判もあったことでしょう。

さらに如信上人は1300年ころにはすでに亡くなって、まだ本願寺はありませんでした。

それにもかかわらず二代目にされたことについては様々な理由が考えられます。

  • 親鸞聖人から面授のお弟子の中で、唯一血縁関係がある方であったこと
  • 関東の親鸞学徒からの信頼が厚かったこと
  • 覚如上人の祖父・覚恵の師匠であったこと
  • 覚信尼から留守職を打診されるほど信頼されていたこと
  • 覚如上人自身が面授で教えを受けた師として重要であったこと

如信上人が亡くなった後も、覚如上人は何度も周回忌法要をされています。

それは如信上人への深い敬愛と、師としての尊敬の念の表れであり、覚如上人にとって如信上人以外に二代目とする人はいなかったのでしょう。

三代伝持の血脈が示す二つの意味

では、なぜこの三代伝持の血脈が重要だったのでしょうか。それには二つの大きな意味がありました。

意味1: 法然上人から親鸞聖人へ

実は、親鸞聖人が法然上人の正統な後継者であることを証明しようとする努力は、多くの親鸞学徒における共通の課題でした。

唯円房の『歎異鈔』や性信系の『血脈文集』なども、そのような努力の一つだったといえるでしょう。

なぜ、そこまでして証明する必要があったのでしょうか。

それは、当時の浄土教界において、親鸞聖人を「師である法然上人に背いて自立した異端者」のように誤解する者、あるいは誹謗する傾向が強くあったからです。

このような浄土教界において親鸞聖人の教えを伝えようとする者は、まずこれらの誤解や誹謗に対して、法然上人から親鸞聖人への純正な血脈相承を証明する必要があったのです。

覚如上人は、この点を鮮明にするために、法然上人から親鸞聖人に伝わる法脈を系統づけられました。

覚如上人が『本願鈔』で次のように述べておられます。

黒谷の聖人源空より本願寺の聖人親鸞相承しましますところの報土往生の他力を不思議の信心

出典:『本願鈔』

意訳: 法然上人から親鸞聖人が相承された、阿弥陀仏の本願による報土往生の他力の信心

法然上人から親鸞聖人へ、鮮やかに阿弥陀仏の本願が受け継がれていることを明示されています。

意味2: 親鸞聖人から覚如上人へ

そして各地の浄土真宗門徒を統一するため、親鸞聖人と覚如上人を系譜づけることが重要でした。

当時、浄土真宗の中で最も勢力があったのは、親鸞聖人の直弟子・真仏上人の流れを汲む高田門徒でした。親鸞聖人→真仏上人→顕智という師資相承(師から弟子への正式な継承)を明確にし、「専修寺」を中心に強固な教団を形成していました。

また、元応2年(1320年)頃から急速に勢力を拡大した佛光寺も深刻な脅威でした。了源という人物が「名帳」「絵系図」という独自の布教手法で信者を集め、親鸞聖人→真仏上人→源海→了海→誓海→明光→了源という「一流相承」を主張していました。

しかしこれらの教えには、親鸞聖人の本意とは異なる解釈が含まれていたのです。

また浄土真宗においては、親鸞聖人の血を引く家族と親鸞聖人の直弟子たち(門弟)との間に対立があったようです。

あの善鸞が父である親鸞聖人から義絶の宣言を受けられたという悲しい経緯も、この深刻な抗争に影響がありました。

そのため各地に散在する門徒が、各々自分こそ正しい親鸞聖人の教えを伝えると自負して他を凌ごうとしたのです。

三代伝持の血脈で言いたかったこと

この三代伝持で主張したかったのは、2つの正統性があることです。

血脈(血統による継承)

親鸞聖人 → 覚信尼(末娘) → 覚恵 → 覚如

血統による廟堂管理権(留守職)の継承

法脈(教義の継承)

親鸞聖人 → 如信上人 → 覚如

教義の口伝による継承

三代伝持の血脈の核心は、「血法一如」という考え方にあります。

覚如上人は、親鸞聖人の血を引くと同時に、親鸞聖人の教えを正しく受け継いだ正統な継承者でもあるという、二重の正当性を主張されました。

現代とは違い、当時では血脈は正統性を主張する上で重要な根拠となりやすく分裂し混乱していた教団に対して、血統というわかりやすい指標を示したのです。

これは親鸞聖人の直弟子の間では主張できないことであり、本願寺のみ可能な説得力の高い主張でした。

これを踏まえて、正しい教えを伝えていかれます。

三大著作による教えの明確化

覚如上人は、親鸞聖人の教えを正しく伝えるために、三つの重要な著作を残されました。

『口伝鈔』—面授口訣の重要性を示す

元弘元年(1331年)、62歳の覚如上人は『口伝鈔』を著されました。

この書で覚如上人が強調されたのが、「面授口訣」の重要性です。

面授口訣とは、師と弟子が膝を突き合わせ、口伝えによって教えの深淵を授受することを意味します。

覚如上人は、親鸞聖人から孫の如信上人へ、そして如信上人から自分(曾孫)へと、この面授口訣によって教えが正しく伝えられたと主張されました。

『口伝鈔』の巻尾には、覚如上人自身が次のように記しています。

元弘第一之暦、仲冬下旬之候、相当祖師聖人辟寺報恩謝徳之七日七夜勤行中談話先師上人釈如信面授口決之専心専修別発願之次、所奉伝持之祖師聖人之御己証、所奉相承之他力真宗之肝要、以予口筆令記之

出典:『口伝鈔』

意訳: 元弘元年(1331年)11月下旬、親鸞聖人の報恩講(七日七夜の勤行)の最中に、先師・如信上人から面授口訣で授けられた親鸞聖人の教えの核心と、他力真宗の肝要を、私自らの口述で筆記させたものです。

この筆記を担当したのは、覚如上人の弟子・乗専(円空)でした。乗専はこの『口伝鈔』を何回も書写し、門徒への教化に用いました。

命がけの関東布教

『口伝鈔』を著した翌年の元弘2年(1332年)、63歳の覚如上人は大きな決断をされます。

如信上人の三十三回忌に合わせて、自ら東国(関東地方)へ赴かれたのです。

なぜ関東だったのでしょうか。

当時、浄土真宗の信仰の中心は関東にありました。親鸞聖人が20年間布教された地であり、有力な門徒集団が数多く存在していたからです。

覚如上人は、東国の有力門徒20人余りと対面し、自らが「親鸞聖人の正統な後継者」であることを認める署名を取り付けることができました。

この行動は、63歳という当時ではかなり高齢での長旅であり、まさに命がけのご布教でした。

しかし覚如上人は親鸞聖人の教えを正しく伝えるために、自ら最前線に立たれたのです。

『改邪鈔』—異義を論破する

建武4年(1337年)、68歳の覚如上人は『改邪鈔』を著され、当時広まっていた誤った教えを一つ一つ論破していかれました。

この書も『口伝鈔』と同様、弟子の乗専が覚如上人の口述を筆記したものです。

なぜ『改邪鈔』が必要だったのか

『慕帰絵』には、その理由が次のように記されています。

末寺の名をつり当流に号をかける花夷のあひた貴賤のたくひ、大底僻見に任して恣に放逸無慚の振舞を致し、邪法張行の謳歌に就て外聞実義しかるべからす、ことさら本寺として厳制のむね、条々篇目をたて、是も口筆せらる

出典:『慕帰絵』

意訳: 「末寺」と称しながら「当流(真宗)」を名乗る者たちが、勝手な解釈で放逸な振る舞いをし、邪法を広めているため、本寺として厳しく正さなければならない。

特に問題とされたのが、急速に勢力を拡大していた佛光寺の布教手法でした。

『改邪鈔』の第一条は「名帳」(信者の名前を記した帳面)、第二条は「絵系図」(親鸞聖人からの血脈を絵で示した系図)を批判しています。これらは佛光寺が独自に用いていた布教道具でした。

覚如上人はこれらを「親鸞聖人の教えにはない異義」として厳しく批判し、「信心正因・称名報恩」(信心が往生の正しい因であり、念仏は阿弥陀仏への報恩の行である)という親鸞聖人の本来の教義を明確に打ち出されました。

「三代伝持の師伝」という明確な基準

ここで覚如上人が用いられた判断基準が、「三代伝持の師伝に非ず」というものでした。

つまり、法然上人・親鸞聖人・如信上人の口伝に基づかないものは、すべて「自義」(勝手な解釈)であり、邪法であるという明確な基準です。

『改邪鈔』の識語(書物の末尾に記す言葉)には次のように記されています。

意訳: 最近、祖師・親鸞聖人の門徒と名乗る者たちが、師の伝えではない勝手な解釈を主張し、自分も誤り、他人をも迷わせているため、その誤った風潮を打ち砕いて正しい教えを掲げるために、この書を著しました。

つまり、『改邪鈔』は単なる教義論争の書だけではなく、本願寺の正統性を宣言する書でもありました。

親鸞聖人の生涯を後世に伝える『御伝鈔』

覚如上人は74歳の時、『本願寺聖人伝絵(御伝鈔)』を完成させられました。

これは親鸞聖人の生涯を絵と文章で綴った伝記です。初稿は上人が26歳の時(永仁3年・1295年)に作られていましたが、この年に改訂されました。

特に重要なのは、最終巻に廟堂創立の一段を設け、次のように記したことです:

聖人相伝の宗義いよいよ興じ、遺訓ますます盛なること、頗在世の昔に超たり、すべて門葉国郡に充満し、末流処々に遍布して、幾千万といふことをしらず、其稟教を重くして彼報謝を抽る輩、緇素老少面々あゆみを運て、年々廟堂に詣す

出典:『本願寺聖人伝絵』

意訳: 親鸞聖人から相伝された教えはますます興り、その遺訓はますます盛んになり、在世の昔を超えるほどになりました。すべての門徒が国中に満ち、その流れは各地に広まり、その数は幾千万かわかりません。その教えを重んじ、報謝の念を抱く人々が、僧侶も在家も、老若を問わず、年々廟堂に詣でています。

親鸞聖人の教えが全国に広まり、多くの人々が廟堂に参詣するようになったことを記録されたのです。

波乱に満ちた晩年

覚如上人の晩年は、親鸞聖人の教えを守るための活動と同時に、家族との複雑な関係に苦しまれた時期でもありました。

長男・存覚上人との義絶

覚如上人は、長男・存覚上人を二度にわたり義絶されました。

第一回の義絶と和解

  • 元亨2年(1322年)6月25日、53歳で義絶
  • 暦応元年(1338年)9月、69歳で和解(16年後)

第二回の義絶と和解

  • 康永元年(1342年)73歳で再び義絶
  • 観応元年(1350年)8月、81歳で和解(8年後、覚如上人の死去半年前)

最終的に、覚如上人は存覚上人との和解は果たしましたが、本願寺を継ぐことは許さず、孫の善如に本願寺別当職(住職)を譲られました。

詳しくは以下をお読みください。

父と子の最期の別れ

覚如上人と存覚上人の和解は成立しましたが、存覚上人は父と同居せず、河内(現在の大阪府)に住むことになりました。

『存覚一期記』には、別れの場面での覚如上人の言葉が記されています。

意訳: こうした動乱の折には、父子が同居して、互いに助け合うことが望ましい。自分は存覚と一所に住み、生涯を終えるつもりでいた。いまここで別れて住むなれば、老齢であるからもうふたたび会うことができないであろう。これがこの世の別れかも知れない。

そう言って、しきりに落涙されたといいます。

親鸞聖人の教えを守るために厳しく義絶した息子。しかし、最期の別れの場面では、父としての深い愛情が溢れ出ているのが分かります。

覚如上人の最期

観応2年(1351年)、動乱はますます激しさを加え、覚如上人の生活は窮迫していました。

存覚上人は、覚如上人への使者に金子を密かに持たせました。途中で軍兵に食糧を奪われながらも、金子は無事に覚如上人のもとに届きました。

覚如上人は寺中の人たちと、存覚上人の心遣いを感謝し、涙しつつ盃を傾けられたといいます。これが最後の食事となりました。

最期の和歌

正月18日、病状が悪化した覚如上人は、和歌を詠み、傍らの人に書きつけさせられました。

南無阿弥陀  仏力ならぬ  のりぞなき
たもつ心も  われとおこさず

他力の信心を詠まれたものと伝わります。

翌19日、覚如上人は示寂されました。享年82歳。

23日、東山延仁寺で火葬に付され、翌日24日、拾骨されました。墓所は遺志によって西山久遠寺内に設けられました。

最後の最後まで、阿弥陀仏の本願を讃嘆し、他力の信心を示された覚如上人。

その生涯は、まさに親鸞聖人の教えを守り伝えることに捧げられたものでした。

蓮如上人による大発展—覚如上人が蒔いた種

覚如上人の時代、三代伝持の血脈の理論は確立されましたが、本願寺の勢力は依然として小さく、高田門徒や佛光寺の方がはるかに大きな影響力を持っていました。

では、覚如上人の努力は無駄だったのでしょうか。

いいえ、決してそうではありません。

約150年後、第8代蓮如上人の時代になると、状況は一変します。

蓮如上人が、『御文(おふみ)』を通じて全国の門徒に教えを届けられると、「親鸞聖人の教えを正しく伝える唯一の正統な継承者」は蓮如上人のいる本願寺であると、多くの人が押し寄せます。

覚如上人が作られた本願寺は、後に多くの親鸞学徒が仏法を聞き求めるための大きな基盤となっていくのです。

編集後記

覚如上人の生涯の歩みから、私たちは「教えを守り、正しく伝える」ことの重みを知らされます。

覚如上人は、当時の混乱の中で「三代伝持の血脈」という形を立てられました。血統という分かりやすい根拠を示すことで、人々の心を一つにまとめ、親鸞聖人の教えを守ろうとされたのでしょう。

これは、その時代において必要な“護り方”でした。

しかし、血脈そのものが教えを生み、教えを伝えるのではありません。

時代が変わった今、私たちが最も大切にすべきは、覚如上人が命をかけて明らかにされた「法脈」――親鸞聖人の教えそのものです。

覚如上人は『口伝鈔』や『改邪鈔』などの著作を通じて、何が親鸞聖人の本意であるかを根拠をもって示されました。

正御本尊は御名号であること、そして平生業成・一念往生という真髄を、現代でも分かるように伝えてくださっているのです。

形に頼るのではなく、教えの根拠に立って阿弥陀仏の本願を聞かせていただきたいと思います。

覚如上人が守り伝えてくださった親鸞聖人の教えの真髄を、これからも浄土真宗親鸞会京都会館で真剣に聞かせていただきましょう。

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