室町時代中期。近江の地に、錦織寺という有力な寺院がありました。
浄土真宗木辺派の中心として、多くの門徒を抱え、その勢力は近江だけでなく、大和(奈良)、伊賀、伊勢(三重)へと広がっていました。
錦織寺についてはこちらもお読みください。

代々、慈観以降、存覚上人の子孫が相続を重ね、錦織寺は勢力を広げていました。
しかし、その繁栄の終わりが、静かに近づいていたのです。
錦織寺の本願寺との疎遠化
『反故裏書』には、こう記されています。
其後慈達・慈賢、子孫相続ありしが、慈賢著子に譲り玉ふ前後より、当家へ疎遠也なりし也なり。
出典:『反故裏書』
意訳:その後、慈達・慈賢と代々相続が続いたが、慈賢が嫡子に譲ったころから、本願寺との関係が次第に疎遠になっていった。
外から見れば穏やかな継承。しかし、その内実は複雑でした。
親鸞聖人の教えは、次第に形骸化していきました。
聞法求道の熱が薄れていく中で、若き僧や門徒たちは、心の奥底に迷いを抱き始めていたのです。
内部に生じた亀裂
第七代目慈賢には、慈範と叡尚という二人の子どもがいました。
第八代目として兄の慈範が跡を継ぎましたが、寺院内部は不安定でした。
特に、弟の叡尚と八代目慈範との関係、さらに叡尚と門徒たちとの間に不満と対立が生まれ、やがてそれは深い不和へと広がっていったのです。
『反故裏書』には、こう書かれています。
其比叡尚と申せし人、門徒と不和の事出来し。
出典:『反故裏書』
意訳:そのころ、叡尚という人が門徒たちとの間に不和を生じさせてしまいました。
それまで近江から、奈良、三重にまで広がりを見せていた錦織寺の勢力。
すべての地域で動揺が走りました。
その様子を、静かに見つめている一人の若者がいました。叡尚の息子、勝慧。まだ十代の青年僧でした。
蓮如上人との出会いと勝慧の聞法
これまで、蓮如上人は何度も滋賀の地を訪れて布教されていました。
蓮如上人が来られれば、そこには市ができるほど人が集まりました。
山科本願寺の住職を退いたあとも、滋賀での蓮如上人の影響力はますます広がっていきます。
若き勝慧は、最初は純粋な興味からでした。
「なぜそこまで人が集まるのだろう」
教えを聞きに行った勝慧は、蓮如上人が教えられる親鸞聖人の教えに、衝撃を受けました。
「阿弥陀仏の本願は、一念で絶対の幸福にしてくださる教えだったのか」
「後生の一大事の解決こそが、すべての人に共通する最大の問題ではないか。」
勝慧の心は大きく揺さぶられました。
聞法への渇望
それから勝慧は、錦織寺派でありながら、何度も京都の山科本願寺へ足を運ぶようになりました。
蓮如上人から阿弥陀仏の本願を聞かせていただく日々。聞かせていただけばいただくほど、錦織寺の状態や、そこで教えられる内容に疑問を抱き始めます。
「親鸞聖人の平生業成の教えを、今の錦織寺では伝えることができていない。」
「錦織寺では今、取るに足りないことばかりを問題にして、最も大事な後生の一大事の解決をおろそかにしている。」
「蓮如上人から教えをもっと聞かせていただきたい。」
しかし、勝慧の心には大きな葛藤がありました。
深まる苦悩
勝慧は優秀でした。錦織寺の跡継ぎとも目されるほどで、多くの門徒からも慕われていました。
このまま錦織寺から離れれば、多くの門徒を見捨てることになる――。
その思いが、勝慧の心を縛りつけました。自分の聞法心と、門徒への責任。二つの思いの間で、勝慧の悩みは日に日に深くなっていきました。
経豪の前例
そんな勝慧の心に、ある出来事が浮かんできました。
約10年前、佛光寺派の本山である佛光寺の住職だった経豪という僧が蓮如上人のもとへ帰参したことを、勝慧は聞き知っていました。
経豪の帰参については、以下の記事をお読みください

佛光寺派の本山の住職でありながら、その地位を捨て、蓮如上人のもとへ走った経豪。
その決断を思い出したとき、勝慧の心は定まりました。
勝慧の決断の時
「ことは後生の一大事だ」
明応二年(1493)年、勝慧は遂に決断しました。
「蓮如上人のもとで、本当の親鸞聖人の教えを聞かせていただきたい」
「親鸞聖人の教えが乱れた錦織寺に、もはや未練はない」
勝慧は各地の門徒のもとに赴きました。
そして、自分の気持ちを正直に話したのです。
すると、勝慧の気持ちに共感した門徒たちが、次々と立ち上がりました。
蓮如上人の教えられる本当の親鸞聖人の教えを聞いた門徒たちも、勝慧と共に、蓮如上人に帰参する道を選んだのです。
近江だけではありませんでした。大和、伊賀、伊勢の門徒にも及び、40カ寺ほどの末寺が従ったといいます。
錦織寺はこのあと、急速に勢いを失っていきます。
八代目慈範の亡きあとは乱れに乱れ、寺の運営は末寺の者たちが勝手に行い、時には異派の僧を雇い入れては一時的に住職に据えることもありました。
組織の混乱や、教義の崩れは、長い間続き、このあとも門徒は、本願寺派や佛光寺派に流れていくこととなりました。
蓮如上人と親戚関係に
一方、蓮如上人は、かつての経豪のときと同様に、勝慧の帰参を大変喜ばれました。
蓮如上人は、存覚上人を「大勢至の化身である」と述べられるほど、大変尊敬されていました。
その存覚上人の子孫である若き青年が、年老いた自分を慕ってくる。蓮如上人は、不思議な縁を噛み締めておられたことでしょう。
勝慧を温かく迎え入れた蓮如上人は、「勝林」という名前を与えられました。
そして娘の妙勝と結婚させ、蓮如上人と勝慧は、親戚関係となったのです。
結婚後は、京都市伏見区下三栖あたりに住み「三栖坊」を開きました。現在光現寺があるところだと言われます。この地は、大阪石山本願寺と京都の山科本願寺の双方へ行きやすい要所でした。 このことからも、勝慧が両御坊にとって重要な人物と見なされていたことがうかがえます。
奈良での活躍
しかし、幸せな日々は長くは続きませんでした。蓮如上人が亡くなられた翌年、妻の妙勝も24歳という若さで亡くなってしまったのです。光現寺には今も妙勝の墓があります。
勝慧は深く悲しみました。
しかしその悲しみを乗り越え、活躍の場を、奈良の地に変えることにしました。
勝慧は活躍の場を、大和国吉野(現在の奈良県下市町)へ移します。
そこには、蓮如上人が開基した願行寺(下市御坊)がありました。 この寺は飯塚本善寺と並ぶ奈良布教の二大拠点であり、勝慧はその住職に就任したのです。
願行寺は、存覚上人の御廟があるところに蓮如上人が建てられ、過去には存覚上人が草庵を結んだ地とも言われています。勝慧にとっては、大変深い因縁のある場所でした。
もともと奈良の門徒と縁の深い勝慧が願行寺の住職となることで力を発揮し、さらに奈良の人々へ、親鸞聖人の教えが伝えられることになりました。
そして勝慧は蓮如上人の第十三女である妙祐を妻として迎えますが、妙祐も26歳で亡くなります。
その後も蓮如上人の子孫たちと連携を取りながら、奈良の地で阿弥陀仏の本願を明らかに説き続け、83歳で亡くなられました。
編集後記
隆盛を誇った錦織寺が、本願寺と疎遠になる中で、なぜ衰退していったのでしょうか。
それは親鸞聖人の教えが明らかにされず、「聞法の熱」が薄れたとき、組織の内側から崩れていくのかもしれません。
対照的に、蓮如上人のもとには「市ができるほど」の人が集まり続けました。
若き勝慧が、そして多くの門徒が惹かれたのも、蓮如上人が正しい親鸞聖人の教え・阿弥陀仏の本願を伝えてくださり、そこに「真実」を感じ取ったからでしょう。
親鸞聖人の教えが正確に、明らかにされていれば、聞法の熱は自然と高まります。
これからも浄土真宗親鸞会京都会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。

