晩年の親鸞聖人~京都での生活と善鸞義絶の悲劇~

親鸞聖人は、還暦を過ぎて関東から京都に戻られました。そこからの約30年間は、むしろそれまで以上に精力的に布教に励まれました。

この期間に、親鸞聖人は主要な著作を完成させ、遠く離れた弟子たちを手紙で導き、そして長子との悲しい別れを経験しながらも、その教えを多くの人々に伝え続けられたのです。

今回は、晩年の親鸞聖人のご生活とご苦労について紹介します。

目次

なぜ京都に戻られたのか(63歳頃)

親鸞聖人は約20年間、関東の地で阿弥陀仏の本願を弘められました。

しかし還暦を過ぎた頃、京都へ戻ることを決意されます。

その理由は明確にはわかっていませんが、浄土真宗の根本聖典である『教行信証』を完成させるためであったと言われています。

当時の京都には仏教の経典や論書が豊富にあり、それらを参照する必要があったと考えられています。

親鸞聖人の居住地

親鸞聖人が京都のどこに居住されていたかは不明な点も多いですが、いくつかの資料からその足跡をたどることができます。

還暦を過ぎて京都へ戻られた当初は、法然上人の門下であった頃と同じく、岡崎に住まわれたといいます。

岡崎については、こちらの記事をお読みください。

この地は聖人が35歳まで過ごされたゆかりの場所であり、関東から戻られて以降は「親鸞屋敷」とも呼ばれたようです。

しかし、常に同じ場所に住まわれていたわけではなく、各地を転々とされていたと伝えられています。『御伝鈔』には、親鸞聖人の京都での生活について次のような記述があります。

聖人故郷に帰て往事をおもふに、年々歳々夢のごとし幻のごとし、長安洛陽の栖も跡をとどむるに願とて、扶風馮翊ところどころに移住したまひき、五条洞院わたり、一の勝地也とて、しはらく居をしめたまふ

出典:『御伝鈔』

意訳:聖人が故郷に帰って過去を振り返ってみると、年月は夢のようであり幻のようであった。京都での住まいも跡を残したいという願いから、扶風馮翊のように栄えた右京や左京の各地に移り住まれた。五条洞院のあたりは良い場所であるということで、しばらくの間そこに住居を構えられた。

この記録によると、親鸞聖人は縁に従って京都の各所を移り住み、特に五条西洞院あたりを「勝地(優れた場所)」として、しばらくお住まいになったとされています。

次の地図は、親鸞聖人洛中寓居跡のある場所です。

しかし、京都での暮らしは順風満帆とは言えず、82歳の時には京都大地震に、さらに83歳の時には住まいが火災で焼失するという災難に見舞われています。

火災に遭う(83歳)

親鸞聖人が関東の弟子・真仏房に宛てた書簡には、火災の様子が記されています。

このゑん仏ばう、くだられ候。こゝろざしのふかく候ゆへに、ぬしなどにもしられ申さずして、のぼられて候ぞ。こゝろにいれて、ぬしなどにも、おほせられ候べく候。この十日のよ、せうまうにあふて候。この御ばう、よくよくよくたずね候て候なり。こゝろざしありがたきやうに候ぞ。さだめてこのやうは申され候はんずらん。よくよくきかせ給べく候。なにごともなにごともいそがしさに、くはしう申さず候。あなかしこあなかしこ

出典:『真蹟書簡(第三通)』

意訳:この円仏が関東へくだってゆきます。志が深く、主などにも申しあげずに上京したのです。どうぞよしなに、信願房にも仰せられるように。この十二月十日の夜、火災にあいました。この御房はよくまあ尋ねておいでたものです。その志はありがたいほどに思います。そのへんのことは、きっと当人から申しあげるでしょう。よくよくお聞きとりください。あれこれと忙しさのまま、くわしくは申し上げません。あなかしこ、あなかしこ。

この手紙は、真仏房の孫弟子にあたる円仏房が、師(信願房)に黙って上京してきたため、親鸞聖人が祖父弟子である真仏房へとりなしを頼んだものです。

火災に見舞われた直後にもかかわらず、訪ねてきた弟子を気遣う親鸞聖人の温かさが伝わってきます。

この火災の後、親鸞聖人は三条富小路にあった善法房の住房へ移り住んだと考えられています。

善法房の住房への顕智の来訪

京都に戻られた後も、親鸞聖人のもとには多くのお弟子や同行が訪れました。

現在の栃木県にあった高田専修寺の第三世・顕智が上洛して親鸞聖人に謁見した際に聞いた「自然法爾」の法語を記録した文書が現存しています。

その奥書には次のように記されています。

正嘉二歳戊午十二月日、善法房僧都御坊、三条とみのこうぢの御坊にて聖人にあいまいらせてのきゝがき。そのとき顕智これをかくなり。

出典:専修寺蔵顕智筆『獲得名号自然法爾御書』

意訳:正嘉二年(戊午、西暦1258年)12月のある日、善法房(尋有)僧都の三条富小路にあった御坊で親鸞聖人にお会いした際に、お聞きしたことの記録です。その時、顕智がこれを書き記しました。

この記録から、1258年、親鸞聖人86歳の時に、三条富小路にある善法房という僧都の住房に住んでおられたことがわかります。
親鸞聖人が入滅されたのもこの場所だと考えられており、86歳から最期の日々をここで過ごされたと思われます。

親鸞聖人の御臨終については次の記事をお読みください。

このように、親鸞聖人は地震や火災など、次々と見舞われる災禍の中で布教を続けられました。

そして、火災に遭われた翌年には、生涯で最も悲しい出来事が起こります。

それが、長子・善鸞の義絶です。

長子善鸞を義絶した理由(84歳)

親鸞聖人のもとに、関東の弟子である性信房たちから悲しい知らせが次々と届いていました。

息子の慈信房善鸞が、仏法を破壊する恐ろしい言動を繰り返しているという報告です。

善鸞の言動

嘉元3年7月27日、顕智房が書写した「義絶状」には、次のような記述があります。

又、慈信房の、ほうもんのよう、みょうもくをだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、よる親鸞が、おしえたるなりと、人に慈信房もうされてそうろうとて、これにも、常陸下野の人々はみな、しんらんが、そらごとをもうしたるよしを、もうしあわれてそうらえば、今は父子のぎは、あるべからずそうろう

意訳:善鸞が、この親鸞が言ったこともないことを、夜中に善鸞だけに教えたと言いふらし、関東の同朋たちを惑乱させている。そんなことでは親と子の縁を切るより外はない

さらに善鸞は次のような秘密の法門があるとも言いふらしていたようです。

私だけが真実の教えを知っている。みんなが今まで父から聞いていたものとは違う。私の知っているのが本当の父の教えなのだ。父が夜、ひそかに私一人に教えてくれた秘法だから

この「夜ひそかに父が私一人に教えた」という主張から、これは「夜中の法門」や「秘事法門」と呼ばれ、善鸞が秘事法門の元祖のようにいわれるようになったのです。

善鸞の「秘法」の正体

では、善鸞が「夜中に授かった秘法」と主張していたのは何だったのでしょうか?

『義絶の書状』によると、善鸞は次のように教えていました。

第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとにみなすてまいらせたり

意訳:弥陀の本願の中心である十八願を信じてきたが、それは父の真意ではなかった。かつて栄えても今はしぼんだ花のようなものだから、もう捨てようじゃないか

これはもう、親鸞聖人の根本教義である「一向専念、無量寿仏」の否定であり、大変な謗法罪を繰り返していたのです。

現世祈祷師に堕ちた善鸞

『最須敬重絵詞』には、さらに衝撃的な記述があります。

初は、聖人のお使として坂東へ下向し、浄土の教法をひろめて、辺鄙の知識にそなわり給けるが、後には、法文の義理をあらため、あまさえ巫女の輩に交て、仏法修行の儀にはずれ、外道尼乾子の様にておわしければ、聖人も御余塵の一列におぼしめさず

出典:『最須敬重絵詞』巻5

意訳:初めは、聖人(親鸞聖人)のお使いとして関東地方へ下向し、浄土の教えを広めて、辺境の地の指導者となられたが、後には、教義の解釈を勝手に変更し、そのうえ巫女たちと交わって、仏法修行のあり方から外れ、外道(仏教以外の教え)の尼乾子(ニガンタ、ジャイナ教の修行者)のようになってしまわれたので、聖人も御弟子の一人とはお認めにならなかった。

つまり、善鸞は神に仕えて祈祷し、人の吉凶を予言する現世祈祷師になっていたのです。これは親鸞聖人が最も嫌われた行為でした。

実際、親鸞聖人の曽孫である覚如上人が病気になった際、善鸞は「われ符をもって、よろずの災難を治す」と符を持参したという記録も残っています。

権力者との癒着まで推進

さらに、真浄房宛ての手紙では、善鸞は次のようなことまで言っていました。

これまでのように、社会的に無力の者同士で信仰していては教えが弘まらない。信者以外でもよい。社会的に有力者と縁を結んで彼らの力を利用して布教するように改めよ。これも父の新しい教えだ

しかし、親鸞聖人は『御消息』で明確に否定されています。

余(権力者)のひとびとを縁として、念仏をひろめんとはからいあわせたまうこと、ゆめゆめあるべからずそうろう。(中略)これよりは、余の人を強縁として、念仏ひろめよともうすこと、ゆめゆめもうしたることそうらわず

出典:『御消息』第7通

意訳:権力者の力を借りて仏法をひろめよなどとは、決して考えてはならない

親鸞聖人が厳戒していた権力者との癒着まで、聖人の名のもとに推進されていたのでは、もはや許すことはできません。

親子の縁を切ってまで阿弥陀仏の本願を守りぬかれた聖人のお気持ちは、計り知ることはできない悲しみだったことでしょう。

善鸞の言動によって関東の親鸞学徒が、親鸞聖人のもとまで教えを求めて訪ねたことについては、以下の記事もお読みください。

しかし親鸞聖人はどんな困難が待ち受けていても、決して歩みを止められませんでした。

親鸞聖人の晩年のご教導については、以下の記事もお読みください。

編集後記

親鸞聖人の還暦を過ぎてからの約30年間、故郷・京都で待っていたのは、決して穏やかな日々ではありませんでした。

大地震や火災に見舞われ、さらには何よりも辛いことであった長子・善鸞との義絶。

我が子との縁を切ってでも阿弥陀仏の本願を守り抜かれたご決断に、聖人の深い慈悲と、本願に対する揺るぎない信念をうかがい知ることができます。

親鸞聖人は、どのような苦難の中にあっても決して歩みを止めず、遠く離れた弟子を励まし、教えを伝え続けられました。

親鸞聖人が多大なご苦労の末に伝えてくださった阿弥陀仏の本願を、これからも浄土真宗親鸞会京都会館で、真剣に聞かせていただきましょう。

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